飛鳥

 飛鳥では屋外で執り行なわれている法事の場面に出合わせました。いったいどなたの法事でしょうか。ところでこの卒塔婆が立てかけられている大岩、どこかで見覚えがあると思います

 石舞台古墳と歴史の教科書に出ていましたが、現在では6世紀〜7世紀にかけて飛鳥地方に勢力を持っていた蘇我馬子の墓と言われており、近くには馬子の屋敷跡と考えられる遺跡も発掘されているそうです。馬子が亡くなったのは西暦で626年ですから、何と1380回忌ということになりますか。
 しかしこの法事、特に蘇我馬子だけを供養するためのものというわけではなく、“古墳祭”と称して飛鳥地方の古墳に葬られているすべての方々への法要だということです。



 ところで蘇我一族と言えば、日本史の教科書では極悪非道の大悪人というイメージがありませんでしたか。特に蘇我馬子、蝦夷、入鹿はいずれも動物の名前が入っているのが面白いですが、親子3代にわたって専横政治を行なったとされています。馬子は物部守屋を殺害、祟峻天皇をも殺害して推古天皇を擁立。蘇我一族は大臣(おおおみ)の地位を“私的”に血族間で譲り渡し、入鹿もまた山背大兄王を攻め滅ぼすなど専横をきわめたが、645年の大化改新で中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らによって殺され、この時、父の蝦夷も屋敷に火を放って自殺した、とあります。ちなみに火を放ったとされる屋敷跡が明日香村で発掘されたというニュースが流れたのは、私が帰京する新幹線の中のことで、もう一日早く報道してくれたら蘇我氏の屋敷跡にも足を伸ばせたのに、と残念な思いをしました。何しろ遺跡からほんの数百メートルの所まで行っていたのですから。

 さて専横政治で権勢をきわめて“悪逆非道”とされている蘇我氏ですが、大化改新が天皇中心の中央集権国家建設への第一歩だったとすれば(年号もこの時に初めて“大化”と制定され、以後“昭和”“平成”まで連綿と続いています)、その後の日本史の推移から考えて、やはり蘇我氏は悪役に仕立て上げられる必然性があったのでしょう。
 しかし蘇我氏の功罪を見ていけば、功績の方がはるかに大きい。まず馬子が物部氏を滅ぼしたと言いますが、これは明らかに宗教戦争です。馬子の側にはかの聖徳太子もついていました。アンチ仏教の物部氏を滅ぼして仏教文化を導入したことが、以後の日本にとってどれほど大きな意味を持つに至ったかは言うまでもありません。
 さらに一族間で大臣の位を譲り渡したことが専横だと言うのなら、後の藤原氏や平家などはどうなるのでしょうか。日本史の教科書の他の専横政治家たちに比べて蘇我氏が一段と悪く言われるのは、やはり大化改新という天皇中心国家を建設する原点における仇役だったという理由が最も大きいでしょう。

 歴史とは恐ろしいものです。それは常に時の権力者によって書かれるものだからです。時の権力者の立場に都合の良い者は善玉として後世に伝えられ、都合の悪い者は悪玉として伝えられます。古代の蘇我氏などは必要以上に悪玉として名を残された日本史上最初の人たちだったかも知れません。
 歴史はそういう目で見ていかなければなりません。もしも太平洋戦争で日本が勝っていたら(そんな事は歴史の必然からはあり得ないことだったのですが)、誰が善玉として伝えられていたか。あるいは郵政民営化は成功すれば小泉首相が善玉として後世に伝えられるけれど、失敗したら誰が善玉になるのか。そんな風に近世から現代の歴史も見ていく必要があります。

 ただし日本史においては、実際の史実と一般的な善玉・悪玉が一致しない例も幾つかあります。その代表的な例は足利尊氏です。尊氏は南北朝時代、南朝方の後醍醐天皇の敵役として日本史上でも有数の悪役にされていますが、実際の日本史は尊氏以後、北朝方の系図に従って進行してきました。もちろん明治天皇から昭和天皇、平成時代の現天皇も北朝系の方々ですが、太平洋戦争中の日本人が崇拝した楠木正成などは南朝方の後醍醐天皇をお護りした武将で、本来なら超悪玉のはずです。
 また天皇中心国家建設にとって古代最大の邪魔物であった蘇我氏と共に物部氏を討った聖徳太子は長い間、一万円札に代表される日本銀行券の顔でした。ところが聖徳太子の顔がお札に印刷されていたのと同時代、日本の子供たちは歴史の教科書で蘇我氏は古代日本最大のガンであったと教え込まれていたわけです。

 こういう毀誉褒貶は日本人独特のもので、世界的には通用しがたいものではないかと私は個人的に思っています。最近の日中・日韓関係の大きなトゲになっている靖国問題も同質です。戦争を憎み平和を希求すると言いながら、戦争を決定した当時の行政府の責任者(それがA級戦犯であるとかないとかいう議論は枝葉末節です)も共に祀られている場所に参拝するのは、日本以外の国の価値基準にはあり得ないのではないでしょうか。一方で“グローバル化”などと言って世界共通の価値基準を求めるつもりであれば、日本でしか通用しない価値基準と、日本以外でも通用する価値基準を使い分ける見識が、国家の指導者には求められていると思います。



 固い話はともかくとして、これは岡寺(龍蓋寺)です
。石舞台古墳から歩いて20分ほどのところにあり、740年(天平12年)の正倉院文書に最初に寺名が見られるとのことですが、草壁皇子の住居だった岡宮を義淵僧正に下された663年が岡寺創建であるとの解説もあします。(ちなみにこの663年は天智天皇2年、白村江で日本水軍が新羅に惨敗した年でもあります。)義淵僧正が法力で龍を池に封じ込めたという伝説が龍蓋寺という正式名称の由来でもあります。
 ところでこの岡寺、私が高校の修学旅行で訪れたいろいろな場所のうち、ほとんど唯一と言ってもよいくらい、40年近くを経た現在でも鮮明な印象の残っている寺です。青少年時代の思い出の中の風景は、実際よりも大きいイメージがありますが、この岡寺は高校時代の印象に残っているものより大きくもなく小さくもなく、まさに同じサイズで建ち続けておりました。
 若い頃に訪れた場所に何十年も経ってから行ってみると、街並みでも自然でも、思っていたよりもずっとこじんまり見えてしまうことが常なので、岡寺での体験はとても不思議でした。御本尊の
如意輪観音様は厄除けの御利益があるとのことで、身代わり御礼の絵馬などが多数奉納されていましたが、あれからの私の三十有余年の生涯、観音様をはじめ多くの方々が身代わりになって下さっていたのではないかと、感謝の気持ちが自然に湧いてきました。



 ところで奈良・薬師寺のところでも申し上げましたが、飛鳥にあった古代日本の政権は、なぜさっさと平城京、平安京と北上して、水運の便の良い土地を占めなかったのか。日本列島の古くからの土着の政権と距離を保ちたかった、あるいは稲作の北限が飛鳥だったという私の個人的な見解は紹介しましたが、私より優秀な後輩である中堀豊先生は、「Y染色体からみた日本人」(岩波科学ライブラリー)という著書の中で、やはり個人的な説として、縄文時代から日本列島に住みついていた人たちと平和的に融和していくために、土着の人々と一定の距離を保っていたのではないかと書いています。(この先生も私同様、考古学会には何の責任も無いので、勝手なことを書いても誰にも咎められない立場であります。)
 中堀先生によると、日本人の中には縄文日本人のY染色体も、朝鮮から渡来した弥生期日本人のY染色体も仲良く共存しているそうですが、これは歴史的に大変興味深いことです。

 例えば中世の蒙古帝国は東ヨーロッパあたりまで含む西域を侵略しましたが、文書が伝えるところによれば、占領した地域の若い男は皆殺し、若い女は戦利品として強姦したとのことです。
 もし若い男は皆殺し、若い女は戦利品、という占領政策が完全に遂行されたとすれば、土着の男性は自分のY染色体(男性だけが持つ染色体で、睾丸を作る遺伝子が載っている)を次代に伝えることなく滅んでしまいます。代わって占領地域に生まれてくる男の子のY染色体はすべて侵略者のY染色体ということになるわけです。
 ところが日本列島においてはそうはならなかった。つまり朝鮮半島から渡来した“弥生系日本人”は、古くから土着していた“縄文系日本人”を完全に排斥して新たな政権を築いたわけではなく、土着の人々と平和的に融和しながら日本という国を築いてきたのではないかということです。弥生系日本人も土着の人々を完全に敵視したわけでなく、縄文系日本人も新たな支配層に対して徹底的なレジスタンスやクーデターを企てたわけではなかったのでしょう。
 「和を以って尊しとなす」という聖徳太子の理想も、「長い物には巻かれろ」とか「寄らば大樹の蔭」などという格言も、社会党や公明党が自民党と連立するような政治形態も、すべては飛鳥の地に始まっているのかも知れません。

 
この文章中に登場した中堀豊先生は2009年4月27日、前立腺癌のため53歳の若さで亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。私より5歳も若いのに、惜しい人でした。

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