仙台・晩翠草堂

 土井晩翠は明治4年に仙台に生まれた詩人で、旧制第二高校から東京帝國大学英文科を卒業、その後はカーライル、バイロン、ホメロスの「イーリアス」「オデュッセイア」の翻訳とともに、叙事詩的な作風の作品を次々と発表しました。晩翠の詩の中でも最も有名なのが「荒城の月」で、これは明治31年頃、東京音楽学校(今の東京芸術大学)の求めに応じて作られたとあり、早世した天才作曲家・瀧廉太郎による哀愁に満ちたメロディーと共にあまりに有名です。
 この歌を歌ったことも聞いたこともない日本人はおそらく1人もいないのではないでしょうか。ヨーロッパ留学中の日本人が、室内から洩れてくるこの曲のメロディーにその場を動けなくなり、廊下でしばし独り涙にくれたというエピソードも聞いたことがあります。
 Wikipediaによると詩集への収録はないとありますが、私の持っている角川文庫の『土井晩翠詩集』(佐藤春夫編・昭和44年版)によると、詩集「天地有情」に収められているようです。

 仙台市を見下ろす青葉城址には土井晩翠の胸像が建てられており、時刻によってあの「荒城の月」のメロディーが自動的に流れるようになっていました。私はあのメロディーを聞くと、小さい頃に曲名を「飛行場の月」と間違えていた恥ずかしい思い出がよみがえってくるのですが、いずれにしても心に沁みる曲ですね。もしかして、私の他にも例えば「工場の月」と間違えていた人もいらっしゃるのでは…?

 ところでこの「土井晩翠」という名前、何と読むかご存知でしょうか?何も知らずに「
どいばんすい」と読んでおくのが無難ですし、実はそれで正解のようです。ところが私は高校時代の漢文の先生から聞いた話をずっと長いこと覚えていて、それによると本当は「つちいばんすい」と読むのだそうです。仙台で「どいばんすい」と読むと笑われるから注意しなさいとのことでした。
 実際、晩翠の本名は土井(つちい)林吉といい、土井晩翠の読み方も「どい」か「つちい」かで諸説あって、文学界でも論争が絶えなかったらしいですが、もう10年以上も前になりますか、晩翠自身が苗字の読み方を「つちい」から「どい」に変えたいきさつを書いた資料が発見されたという報道がありました。つまり普通に何も考えずに「どいばんすい」と読んだ人が正解というわけです。

 仙台市の中心街でもある青葉通りが晩翠通りと交差する付近に、晩翠が晩年を過ごした居宅である晩翠草堂があります(写真下)。「荒城の月」コンビの相方の瀧廉太郎は明治36年に23歳という若さで肺結核で亡くなりましたが、晩翠の方は昭和27年に81歳で亡くなるまで活躍しました。


 ところで先ほど、高校時代の漢文の先生が「つちいばんすい」と読むように、と教えてくれたと書きましたが、何で漢文の先生が土井晩翠の講義をしたのでしょうか。すぐに察しのついた方はかなり国文学と漢文学に通じておられる人と思います。
 実は晩翠の詩集「天地有情」の中に「星落秋風五丈原」というのがあります。ここまで聞けば中国の三国志ファンなら、ああそうかとお判りになったことでしょう。高校時代の漢文の教科書に三国志の文章が出ていたのですが、参考資料として晩翠の詩も掲載されていたのです。

 20歳前後の頃は誰でも多感なもので、私も立原道造のような病的なまでに繊細な詩も大好きでよく暗誦しましたが、土井晩翠の男性的で雄大な叙事詩も好きでした。中でも三国志最大の英雄の諸葛孔明の物語をそのまま詩にした「星落秋風五丈原」は内容から言っても圧巻、今でもその一部は暗誦できるほどです。高校時代、私はまだ「三国志」は読んだことがありませんでした。有名な吉川英治の「三国志」を読んだのはそれよりもっとずっと後のことでしたから、物語自体は知らなくとも晩翠の詠んだ詩は圧倒的な迫力をもって少年時代の私の心に迫ったのです。

 
祁山悲秋の風更けて  (きざんひしゅうのかぜふけて)
 陣雲暗し五丈原、    
(じんうんくらし ごじょうげん)
 零露の文は繁くして   
(れいろのあやはしげくして)
 草枯れ馬は肥ゆれども 
(くさかれうまはこゆれども)
 蜀軍の旗光無く     
(しょくぐんのはたひかりなく)
 鼓角の音も今しづか。 
(こかくのおともいましづか)
              *
 丞相 病あつかりき。   
(じょうしょう やまいあつかりき)

蜀の名将諸葛孔明が、6度目の魏討伐で宿敵の司馬懿仲達と五丈原で対峙した際、陣中で病を得て伏せっている状況から詠い起こしたこの詩、三顧の礼をもって劉備玄徳に迎えられ、五虎将軍らと共に赤壁の戦をはじめとする激戦を戦い抜いて、魏と呉の2大国を互いに牽制させつつ蜀を建国した物語を朗々と詠い上げた後、再び舞台を五丈原に戻して、一段と高らかに諸葛孔明の最期を描いており、元の物語は知らなくてもなかなか胸にジーンと響くものがあります。

 私の好きだった部分を2ヶ所ほど…。まずは諸葛孔明の出廬のくだり。

 
嗚呼南陽の旧草廬    (ああなんようのきゅうそうろ)
 二十余年のいにしえの 
(にじゅうよねんのいにしえの)
 夢はたいかに安かりし、 
(ゆめはたいかにやすかりし)
 光を包み香をかくし    
(ひかりをつつみかをかくし)
 隴畝に民と交れば    
(ろうほにたみとまじわれば)
 王佐の才に富める身も 
(おうさのさいにとめるみも)
 ただ一曲の梁歩吟    
(ただいっきょくのりょうほぎん)

 そしていよいよ三国志最大の英雄にも最期の時が…。胸に迫る名調子です。

 
嗚呼五丈原秋の夜半    (ああごじょうげんあきのよわ)
 あらしは叫び露は泣き   
(あらしはさけびつゆはなき)
 銀漢清く星高く        
(ぎんかんきよくほしたかく)
 神秘の色につつまれて   
(しんぴのいろにつつまれて)
 天地微かに光るとき     
(てんちかすかにひかるとき)
 無量の思齎して        
(むりょうのおもいもたらして)
 「無限の淵」に立てる見よ、 
(むげんのふちにたてるみよ)
 功名いづれ夢のあと     
(こうみょういづれゆめのあと)
 消えざるものはただ誠、   
(きえざるものはただまこと)
 心を盡し身を致し       
(こころをつくしみをいたし)
 成否を天に委ねては     
(せいひをてんにゆだねては)
 魂遠く離れゆく。        
(たましいとおくはなれゆく)

 三国志という壮大な物語は、日本では吉川英治のものが最も多く読まれていると思います。歴史小説の大家である吉川英治がかなり読みやすく書いてくれてはいますが、それでも非常に難解であることは間違いありません。とにかく登場人物が数えきれないくらいたくさんいて、それが謀略渦巻く古代中国の戦乱の中で、時には味方になったり、また別の時には敵になったりするのですから、これはとても詳細にスジを追って理解することはできません。

 まあ、物語の前半は後に蜀の帝になる劉備とその義兄弟の関羽、張飛の3人が主役、後半は諸葛孔明が主役と割り切って、この4人からだけ目を離さなければ、大体の話の流れは見えてきますね。
 世の乱れを憂いて漢王室の再建を目指し、桃園で義兄弟の誓いを立てた劉備、関羽、張飛の3人の男たち。日本が舞台ならさしづめ桜の花の散る丘で契りを結ぶことになりましょうが、中国では桃の花が舞台を引き立てることになります。せっかく義兄弟の誓いを立てた3人でしたが、人が好いだけの劉備と、力が強いだけの関羽、張飛では戦乱の世を勝ち抜くことはできません。
 この人を参謀として迎えれば天下を取れると推薦された1人が諸葛孔明。劉備は孔明の家を2度訪れて2度ともフラれますが、やっと3度目に孔明に会えて心の内を語り合い、天下統一の志を確認しあった劉備と孔明は一心同体の君臣となります。面白くないのがずっと義兄弟として劉備と共に転戦してきた関羽と張飛。しかし劉備から、自分と孔明は水と魚のように互いになくてはならない存在なのだと諭され、以後は孔明に一目置くようになりました。

 これらの故事から「三顧の礼」とか「水魚の交わり」などという言葉が生まれましたが、私がずっと気になっている三国志の人物は鳳雛。“不死鳥の雛”という意味ですが、これは臥龍(“眠っている龍”)と称された孔明と対になっています。本名はホウ統というのですが、ホウの字がワープロで出ないのでとりあえず鳳雛と書くことにします。
 負け戦続きの劉備が軍師を求めたところ、臥龍・鳳雛の2人を得れば天下統一は可能になると推薦され、劉備はこの2人とも自分の陣営に招き入れることに成功しました。しかし三顧の礼とか水魚の交わりなどと讃えられる臥龍(孔明)に比べ、物語では鳳雛の方はあまりに不遇でした。劉備は鳳雛の才能を認めつつも、美男だった孔明の方ばかりを重用し、君主からそれほど可愛がられなかった鳳雛は孔明に嫉妬します。蜀建国の要でもあった赤壁の戦いでも確か鳳雛は大手柄を立てたと思いますが、それでも彼には孤独の影が付きまとい、後の戦いで流れ矢に当たってあっけなく死んでしまうのです。
 同等の才能を持ち、同等の貢献をしながら、一方は陽が当たり、一方は陰となる、そんな人間関係の悲哀そのものこそが、三国志の本当の主人公なのかも知れません。いつの間にか話が仙台から古代中国に飛んでしまいましたが、壮大な三国志の世界への道標となったのが土井晩翠の詩でありました。