ブダペスト(Budapest)医学篇



 ブダペストは「ドナウの薔薇」とか「ドナウの真珠」などと称えられる美しい街で、ドナウ川(Duna)を挟んで右岸がブダ、左岸がペストの2つの地域よりなる。この写真
はブダ側の王宮の丘から対岸の国会議事堂を望んだもので、西欧の街とは異なった落ち着きが感じられるが、この落ち着きはもしかしたら資本主義的な乱開発からしばらく取り残されていた影響による、東欧の都市独特のものかも知れない。
 しかし自由化の波は思わぬところに驚くべき形で見られ、夜の盛り場をバスで通っていた時、ショーウインドウの中でほとんど裸同然の若い娘が艶かしく肢体をくねらせて踊っているのを目にした。おそらく共産主義体制の下で抑圧されていた反動なのだろうが、自由と欲望とは紙一重のものなのだろうかと考えさせられてしまった。確かに銀座や新宿で裸の女が街頭で踊っているのは見たことがないが、我が国でも金やセックスに対する野放図な欲望が満ち満ちているではないか。

 それはともかく、ハンガリー(Hungary)は昔からヨーロッパの片田舎と言われていたが、医学関係ではセンメルワイス(Semmelweis)という大変立派な医師が出ている。日本ではドイツ語読みでゼンメルワイスと呼ばれているが、彼の故郷での呼び方であるセンメルワイスに統一すべきである。センメルワイスがウイーン大学の産科に勤務した19世紀の中頃、医学は現在とは比較にならないほど原始的な状況にあり、妊婦たちは無事に出産が終わっても、その後に襲ってくる産褥熱のためにバタバタと若い生命を落としていた。今の知識で考えれば分娩介助者の手に付いた病原菌が出産時の創傷から感染して全身に回る敗血症だったのだが、もちろん当時は細菌学の確立以前のことであり、そんなことは判らなかった。だがセンメルワイスは分娩介助と病理解剖の経験を蓄積するうちに、分娩介助者の手指の消毒と洗浄で産褥熱の劇的な予防が可能になることを発見したのである。現在では病院の医師も看護師も患者の処置の前後に手洗いと消毒を行ない、外科的処置に際しては滅菌器具を使用するのは常識中の常識となっているが、これを世界で最初に実行したのがセンメルワイスだったのである。
 ところが当時のドイツを中心としたヨーロッパの医学界は、自らの権威が失墜するのを恐れて、センメルワイスの業績を認めようとしなかったばかりか、悪質な妨害、誹謗、中傷を繰り返した。まさに近代医学史における魔女狩りであった。こうしてセンメルワイスは自らの発見が世に認められる日を待たずに世を去ったが、何より悲惨なことに、直ちに予防法が講じられれば救い得た多くの若い産婦たちの生命もまた露と消えたのである。古今東西、医学界というのは似たようなことを繰り返すものである。(ついでに言えば、現在の医学の主流となっている遺伝学の基礎を築いたメンデルの法則もまた、発表当初は19世紀の医学界に受け入れられることなく無視された。)ブダペスト市内のセンメルワイスの生家は、現在医学博物館となって彼の事跡を伝えている



 なおこれらの写真は1996年秋にブダペストで開催された国際病理学会に行った時のものであるが、この学会でいろいろ案内してくれたMariaさんは、日本人と結婚して東京に住み、東京大学の病理学教室で私たちと一緒に勉強して現在では日本の医師免許証も取得しているハンガリー人の優秀な女医さんで、センメルワイスの名を冠したブダペスト市内の医学校出身である。
                帰らなくっちゃ