大宰府



 菅原道真を祭った天満宮には、受験生の頃からさんざんお世話になり、京都・北野や東京・亀戸には御礼にも伺いましたが、九州の本家・大宰府の天満宮には、この年齢になるまで一度もお参りしませんでした。こんなことだから、ついに学問が大成しなかったのでしょう。
 大宰府は博多から南へ約15キロほど行ったあたりで、ちょうど5月の新緑をバックにした天満宮の社殿には、全国各地からの修学旅行生がひっきりなしに訪れていました。
「エ〜、皆さんの学問が成就いたしますように、菅原道真さんにお願いしてみてはいかがでしょうか。」
などという観光バスガイド嬢の案内を車中で聞きながら、博多や吉野ヶ里遺跡あたりからやって来たのでしょう。最近の若い人たちは天満宮にどんなお願いをするのか、奉納された絵馬にその一端を垣間見ることが出来ました。

「○○大学○学部に合格できますように」
「□□資格試験を通りますように」

何だ、我々の時代と変わらないじゃないか。

「友だちがたくさんできますように」
「楽しい学校生活が送れますように」

なかなか良い心がけです。

「良い彼氏と出会えますように」
「お金持ちの結婚相手が欲しい」

???

「A男君が○○試験に通りますように  B子」
こんな事をお願いしてくれる娘なんて俺にはいなかったぞ!チクショウ〜ッ!



 ところで大宰府というと、鎌倉時代の元寇・文永の役の際(1274年:これは「蒙古勢、逃げて帰って一夫なし(1274)」と覚えます)、博多湾での激戦で蒙古軍の新兵器と集団戦法に翻弄されて大苦戦に陥った日本軍は、一旦陣営を立て直すために大宰府まで兵を後退させたとあります。大宰府付近には、663年に朝鮮半島の白村江で敗退した日本軍が新羅軍との本土決戦を想定して築いた水城と呼ばれる堤があり、ここを拠点として反撃の機を窺うことになったからだそうです。
 ところが一方の蒙古軍も勇猛な鎌倉武士たちを警戒して船に引き上げていたところ、夜半の暴風雨で船団もろとも壊滅したと多くの歴史書には書かれていますが、これはちょっと軍事的にはおかしいと思っていました。だって考えてもみて下さい。博多から大宰府までは西鉄の急行や特急電車でも十数分もかかるほどの距離があり、しかも兵馬を動かすには最適な広大な平野が延々と続いているのですよ。西アジアや東ヨーロッパで猛威をふるった史上最強の蒙古の騎馬軍団が、一旦は博多湾の浜辺で鎌倉武士団を徹底的に蹴散らしておきながら、夜になると苦手な船の上に退くなど、それまでの蒙古の戦歴からは考えられないことでした。
 蒙古軍の通常の戦術から言えば、敵軍が15キロも内陸へ後退したのを見れば、浜辺に橋頭堡を作って付近の村々から奪った食糧・財宝・女などを集めて野営を行ない、翌日の朝を待って、捕らえた若い男たちを先頭に立てて大宰府に逃げ込んだ日本軍に一気に襲いかかったはずです。こうしておけば、たとえ夜半に嵐が襲来しようとも、鎌倉武士団に勝ち目はなかったでしょう。

 実は、文永の役の蒙古軍は本気で日本を侵略する意図が無かったという説があります。また日本に遠征した蒙古軍の船団が嵐で壊滅したのは2度目の弘安の役(1281年:「蒙古の人にハイ、さようなら」と覚えます)だけで、文永の役では蒙古軍は勝手に引き揚げて去って行ったのだとも言われています。兵士たちの間に疫病が発生したからだとも、とりあえずこのくらい日本軍を痛めつけておけば蒙古との国交に応じるだろうと踏んだからだ、とも言われますが、理由はともあれ、別に嵐が吹かなくとも、文永の役の蒙古軍は自ら兵を撤収させたのだろうと思います。それまでの蒙古軍の戦歴からはどうしても想像できないような文永の役での“敗退”もこれで説明がつきます。

 ところが文永の役で蒙古軍の威力を知ったはずの鎌倉幕府は元に恭順の意を示すどころか、さらに日本を訪れた元の使者を切り捨てたりして強硬な外交政策を取り続けました。太平洋戦争に負けてアメリカ寄りの外交に転換した現代日本とはまったく別の精神構造です。別にどちらが良いかは客観的に判断できませんが、鎌倉幕府にはサダム・フセイン時代のイラクと同じような“敢闘精神”を感じます。
 業を煮やした蒙古のクビライは、今度は本気で日本侵略を企図したのでしょう、いよいよ弘安の役となりました。しかし鎌倉幕府もこの7年間で博多湾の随所に防塁を設けて蒙古軍の上陸を阻みます。そうこうして戦線が膠着しているうちに猛烈な台風が襲来、蒙古軍は博多湾の海の藻屑と消えたというのが、歴史の真実に近いのではないでしょうか。私は今回、歴史書の記載を思い出しながら博多と大宰府を往復してみて、そう感じました。

 嵐で蒙古軍が壊滅するという奇跡に近い偶然が、1度ならず2度までも起こったとする歴史の改竄が、日本人の間に神風思想を植えつけました。つまり日本は神が守る神国だから、どんな苦難が襲いかかろうとも最後には必ず神風が吹いて救われる、という実に安直な思想です。事実、私の母は太平洋戦争末期、工場へ動員されていたそうですが、B29爆撃機が東京を空襲する最中、何で神風が吹かないのかと本気で考えていたらしいです。
 国力で遥かに及ばないアメリカと戦争状態に入ったのも、この理性を超越した神風思想が政府・軍部の要人の根底にあったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
 歴史の改竄は、数百年にわたる子々孫々の代まで災いをもたらします。「神風特攻隊」などというものが編制され、多くの若者たちが死地に赴かされたのも、その原因は鎌倉時代の先祖たちの所業にあったと言えなくもありません。歴史は正しく語り継がれなければなりませんが、科学的歴史研究の手法が確立されている欧米に比べて、日本や朝鮮や中国など東アジアを含む欧米以外の地域の精神的風土は、現在でも政治的思惑が歴史研究の中立性を脅かしやすいのではないかと危惧しています。

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