深川

 江戸文化を考える時に無くてはならないのが深川の地名です。江戸の街が誕生したばかりの慶長年間に、摂津国から移住した深川八郎右衛門が付近の開発を行なったことから『深川村』の名前が付いたらしいですが、まさか江戸文化の中心地を作ったのが大阪人だったとは驚きですね(笑)。

 江戸時代には、実は隠密だったという噂もある俳人 松尾芭蕉(1644-1694)、天才科学者で変人でもあった平賀源内(1728-1780)、『南総里見八犬伝』の作者 曲亭馬琴(滝沢馬琴:1767-1848)、日本最初の精密な地図を作成した伊能忠敬(1745-1818)など錚々たる江戸人たちが生まれたり居住したりしています。

 “江戸っ子”とは本来は深川を含む東京下町に3代住んだ者だけを指す言葉で、山の手生まれの私は本当は該当しないのですが、これまでずっと江戸っ子を自称してきました。それもちょっと気が引けていたので、今回深川で仕事があった折に、深川不動尊(写真左)と富岡八幡宮(写真右)に初参拝してきました。この年齢までお参りしなかったなんて、実にいい加減な江戸っ子ですね。

 深川不動尊は成田山東京別院深川不動堂というのが正式ですが、深川のお不動様で知られています。成田山のお不動様の別邸みたいなものですか。明治時代の神仏分離(廃仏毀釈)の時代にあっても庶民の不動尊信仰が衰えないので、こういう形で存続を許されたものだそうです。
 私も幼かった頃は成田不動尊のお守りを持たされており、まだ物心ついていなかった1歳か2歳の頃、重たい箱が棚の上からお昼寝中の私の身体の上に落下した際に、成田山の木の御札だけが真っ二つに割れて私には怪我一つ無かったそうで、身代わりになって下さった大恩ある不動様です。

 もう一つの富岡八幡宮は、2017年12月に宮司跡目問題がこじれて殺人事件にまで発展してしまいましたが、もともとこの神社は1627年に創建され、徳川将軍家に保護されてきた由緒ある神社でした。江戸時代以前の神仏習合の時代には別当寺として永代寺があり、神も仏も共に祀って大切に信仰してきたわけです。

 市川團十郎の芝居で不動明王が有名になると、江戸庶民の成田のお不動様に詣でたいという願いを叶えるため、この別当寺である永代寺に成田不動尊が出張して下さった、これを出開帳といいます。まあ、現代ならばNHKの大河ドラマの舞台になった土地には観光客が押し寄せて、地元の経済もそこそこ潤うわけですが、JR成田線も京成電鉄もない時代ですから、芝居の舞台の方が江戸へ出て来てくれたわけですね。成田山の出開帳があった時には、たぶん深川の町も酒や食い物や土産を売る商売人が大勢集まってずいぶん潤ったに違いありません。

 昔はそうやって神社も寺も共に人々の信仰を支えるために互いに提携していたのですが、神仏分離とは明治新政府も乱暴なことをしたものです。明治時代に永代寺は廃寺にさせられましたが、大衆の不動尊信仰は衰えることもなく、成田山東京別院深川不動堂が置かれたことは先に書いたとおりですが、現在深川不動尊になっている場所こそかつての別当寺だった永代寺なのです。

 また富岡八幡宮は現在の大相撲の礎となった江戸勧進相撲の発祥の地であり、境内にはご覧のような横綱力士碑が建てられています。神社の正面右手には大関力士碑もあってこれも立派なのですが、やはり横綱力士碑に比べるとずいぶん小さいような感じがします。大関は三役(大関・関脇・小結)の最高位ですが、横綱という地位は別格なのでしょう。

 さて深川不動尊と富岡八幡宮、いずれも江戸時代、またはそれ以前から存在する由緒ある神社仏閣なのですが、奈良や京都や鎌倉のものとまでは言わずとも、それにしてもあまり古さを感じさせないではありませんか。左写真の左手に見えるキンキラキンの建造物が深川不動尊の本堂で、正面のいかにもそれらしいのが旧本堂、その背後に内仏殿が見えますが、旧本堂にしてこの新しさ、しかもこれが江東区内最古の木造建築だそうですから驚きです。(たぶん木造の民家は除く。)世界最古の木造建築といわれる法隆寺とは比べるべくもありません。 

 それもそのはず、深川一帯をはじめ東京の下町は明治以降もたびたび水害や火災の被害にあい、横綱力士碑クラスの重量ある石造物でない限り、焼かれたり流されたりして昔の面影をとどめる物など残らなかったのでしょう。そういう下町の災害の歴史を示すモニュメントも幾つか見つけることができました。

 左側は付近の公園に建っていた水害の記憶です。波をイメージしたような青いモニュメントに6本のオレンジ色の目盛が描いてあるのがお分かりと思いますが、一番下の地面から数センチのところが『平均満潮位』、つまりこの土地は堤防や護岸工事が無ければ満潮時には海面下に沈むということです。わきに“AP2.00m”と記してありますが、APとは隅田川河口の最低水位を表します。

 次に下から順に『昭和33年第11号台風(AP2.89m)』、『昭和24年キティ台風(AP3.15m)』、『昭和54年第20号台風(AP3.30m)』と続き、さらにその上に『この付近の護岸高(AP3.60m)』となっていて、たいがいの台風の高潮ならば現在の河川から溢れることはないようですが、一番上の目盛は『大正6年の高潮(AP4.21m)』とあります。その上に『この付近の外郭堤防高(AP6.5〜8.0m)』との記載はあって少し安心しますが、震災による原発事故を経験した日本人にとっては、絶対安全などあり得ないことを“平成の教訓”として後世に伝えなければいけません。

 さて右側の写真は昭和天皇の御歌です。大きな石碑に、
 
身はいかに なるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて
と彫られています。この歌は昭和20年8月15日の終戦の直後にお詠みになられた歌ですが、それに先立つ5ヶ月前、3月10日の東京大空襲の被災地を昭和天皇は巡幸されています。この時の空襲はマリアナ基地を出撃した325機のB29重爆撃機のうち279機が日本本土上空に到達、主に東京下町を中心に爆弾・焼夷弾を投下しました。焼夷弾は日本の木造建築を焼き払うことのみを目的とした武器であり、民間人の殺傷という戦争犯罪で裁かれるべき戦略爆撃でしたが、日本政府は後にこの作戦の責任者カーチス・ルメイ大将に勲一等まで授与しています。どこまでお人好しなんだか…。ただし勲一等は天皇親授が慣例でしたが、昭和天皇はそうしませんでした。

 昭和天皇はこの大空襲直後の3月18日朝、焼き尽くされた東京下町を行幸されて富岡八幡宮境内で被災状況の説明を受けられたそうです。陛下はビルやコンクリートの残骸などが目立って関東大震災の時よりも悲惨だとの感想を洩らされ、これで東京も焦土になったねと嘆かれたそうですが、老若男女を問わず多数の無辜の国民が犠牲になったことに胸を痛められたに違いありません。ご自身は戦犯として処刑されても構わないから1日も早く戦争を終結させたいと決意されたと思います。

 それからなお5ヶ月も戦争が継続されたのは何故なのか。最近アメリカのフーバー元大統領の回顧録が話題を呼んでいるように、アメリカは日本からの和平交渉を突っぱねて原爆投下まで徹底的に抵抗させたからかとか、明治の初めから天皇を政治的に利用することしか考えなかった薩長政府の後裔どもが、特攻隊や戦艦大和沖縄突入などの無謀な作戦までを陛下の言葉尻のせいにして自己弁護し続けたからかとか、いろいろ原因を突きつめなければいけませんが、それはまた別のコーナーで語ることにしましょう。しかし富岡八幡宮境内の石碑に刻まれた昭和天皇の御製を見る限り、陛下は本土空襲が開始されてからは早く戦争を終わらせたかった、それが8月にやっと実現してホッとした、そういう心境をお詠みになったものだと私は解釈します。

 それはともかく、江戸時代から近世にかけて度重なる水害と、大震災や大空襲などによる大火災によって、何度も何度も押し流され、焼き尽くされた深川をはじめとする下町の歴史が、江戸っ子気質を形成したと言えるかも知れません。どうせ明日には無くなる宵越しの金など持たないという執着の無さ、何でも初物のうちにさっさと味わっておけという新し物好き、そんな江戸っ子気質が天災・人災に対する諦めの良さに起因するものだとすれば、そんなに自慢して未来に残すべきものではなさそうですね。


         帰らなくっちゃ