家康敗走

 先日久し振りに浜松に立ち寄った際、かつて在勤中に居住していた市街地の北部あたりを歩いてみました。私が浜松に勤めていた頃はまだ郊外の新興住宅地の色合いが強く、ゴールデンウィーク中に行われる浜松祭りでも蚊帳の外でしたが、最近では元城町とか鍛冶町とか助信町などといった古くからの由緒ある参加町内に混じって、私が住んだ和合町(昭和60年から)や萩丘(昭和61年から)も仲間入りして、当時の倍以上の170くらいの町内が祭りに参加しているようです。もし在勤中も祭りに参加してくれていたら、私も町内の法被を着て大凧揚げとか練り歩きとかさせて貰えたのになあと少々残念ですが、最近では住人の減少から参加を取り止める町内もあるそうです。

 さて私は昭和55年に浜松に赴任して最初の半年ほど萩丘に、その後は昭和58年まで和合町に住みましたが、その付近を歩くとエッと驚くような名前の遠鉄バスの停留所があります。写真左が“小豆餅
(あずきもち)”、右が“銭取(ぜにとり)”ですが、この地名には面白い由来があります。

 1573年に武田信玄が徳川家康の領内を侵した三方ヶ原の戦いは、2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』でもご承知のとおり、丘陵地帯での野戦に誘き出された徳川軍の惨敗に終わり、家康は浜松城を目指して命からがら逃げ帰りました。

 逃走の途中、腹が減った家康は途中の茶店で売っていた小豆餅を思わず失敬してしまうが、この無銭飲食に気付いた茶店の婆さんが家康を追いかけてとっつかまえ、代金を支払わせた、すなわち小豆餅を盗んだ茶店のあったあたりを“小豆餅”、婆さんが追いついて銭を取ったあたりが“銭取”というわけです。信玄ばかりか茶店の婆さんまで敵に回して
どうする家康…(笑)

 ちなみに私が最初に住んだ萩丘は小豆餅の近く、次に住んだ和合町は銭取の近くですが、当時は変わった地名だなあと思っただけで、医師としての周産期医療勤務が忙しかったので、地名のいわれとか、地元の歴史などに興味を持つ余裕がなかったことは、致し方ないこととはいえ、今にして思うと返す返すも惜しいことをしたと思います。

 小豆餅と銭取の大雑把な位置関係は下の図のとおりです。西に浜名湖、東に天龍川を望む三方ヶ原台地は、家康の居城である浜松城や現在の浜松駅のある市街地から約20キロ北方で、概略でいえば家康は戦場から数キロ南を指して落ちのびたところで餅窃盗を働き、さらに2キロ先で婆さんに“私人逮捕(笑)”され、やっとの思いで浜松城に逃げ込んだことになりますか。

 ただ家康の無銭飲食と執念深い茶店の婆さんの昔話が史実だったとは思えませんね。小豆餅から銭取まで2キロほどの道を居城目指して懸命に逃げる家康、いかに負け戦で疲労困憊していたにせよ、老婆の足で追いつく相手ではないし、総崩れになった軍勢の中で「この食い逃げ野郎、金払え〜」と叫びながら総大将に近づこうとする異様な老婆の姿を目にした足軽や雑兵が見逃したとは思えません。

 しかしこの面白い逸話が大河ドラマ『どうする家康』に登場しなかったのは不思議ですね。あんなに弱虫で不甲斐なくて、戦国の大名としてあり得ないくらい家康を茶化してデフォルメした脚本でありながら、この茶店の婆さんを登場させなかったのは、脚本家として失格だと思います、少なくとも3年間浜松に住んだ者としては…。確か三方ヶ原敗戦の話の1週か2週前の放送で、家康に悪態をつく餅屋か何かの老婆が出ていたので、ああ、これが小豆餅の茶店の老婆かと思って期待してたんですが…。

 『どうする家康』の脚本を書いていたのは古沢良太さんで、この人はフジテレビ系列のドラマ『コンフィデンスマンJP』、後に映画にもなった大人気シリーズも手がけておられ、これほどの人が脚本を書いているのに、『どうする家康』には正直なところその片鱗すら感じられず残念でした。

 やはり大河ドラマは1年かけて40数話で完結する大作、さらに毎週約40分間の1話ごとにも小さく区切っていかなければいけないので、脚本家としては大変だと思いますね。毎週1話ごとの区切りもつけて視聴者の興味を次週へつなぐために、古沢さんもずいぶん無理をして時間稼ぎをしたなと感じさせることが何回もありました。この三方ヶ原敗走の件もその一つ、家康を無事に逃すために家臣の夏目広次が身代わりになりますが、過去に三河一向一揆の際には主君家康を裏切ったにもかかわらず温情で許して頂いた、そんなことを過去の映像を蒸し返しながらクドクドと広次の口から述べさせる、熱心な視聴者なら何ヶ月か前の放送で知っている内容を、さらにまたオナミダ頂戴で何分間も無駄にしないで、茶店の婆さんにバトンタッチして欲しかった。各回40分間の枠を持たせるための演出が見え見えで間延びしてましたからね。さすが鬼才の古沢さんも小豆餅と銭取の昔話はご存知なかったのかしら。

 家康が這々の体で逃げ帰った浜松城の天守閣です。この上に登ると浜松市街はもとより、武田軍と徳川軍が激突した三方ヶ原台地が一望できます。おそらく城の留守番部隊からは味方の旗色が半端なく不利であることはすぐに分かったと思いますね。

 家康生涯の三大危機は三河一向一揆、三方ヶ原の敗戦、それと本能寺の変後明智勢から逃れるための伊賀越えですが、おそらく最大のものが三方ヶ原の戦でしょう。戦場から城までの絶妙な距離感が伏線になります。もっと近ければ武田勢に城攻めされただろうし、もっと遠ければ敗走中に追撃されて討ち取られていた、この城がこの位置にあったからこそ、その後の日本の歴史は我々が知っているようなものになった。

 徳川幕府の事実上の本拠地は現在皇居になっている江戸城ですが、260年もの間世界に類を見ない泰平の世を作り上げた原点は、やはりここ浜松城といった方が妥当ですね。大河ドラマ『どうする家康』は、家康が戦の無い世を望み続けたという太い1本のモチーフで貫かれていました。正妻の瀬名姫を有村架純さんが演じてましたが、夫を裏切って武田方と謀略を結んだ悪女と言われる女性を、こんな好感度の高い女優さんに演じさせるのかと最初は違和感がありましたが、ドラマ中の瀬名は戦の無い世を作るために武田をも利用しようとしたという設定で、家康と志を共有していたわけですね。

 戦国の世にあり得ない設定ではありますが、最後についに泰平の世を築いた家康というドラマを貫くテーマとしては良かったんじゃないかと思います。でもやっぱり茶店の婆さんには登場して欲しかったな〜(笑)。殺気走った敗戦のドサクサの中でも一介の庶民に対する信義と礼節を忘れなかった武将としての一面も描けたわけだし…。


         返らなくっちゃ