小田原城

 小田原にある小田原市立病院は、ここ何十年にも及ぶ医師としての生活中、週一回の非常勤として病理診断を担当させて頂いたり、私の教え子の学生さんたちの臨地実習をお願いさせて頂いたり、いろいろとお世話になった病院なので、定年を目前にしたこの初夏の頃、ご挨拶に行って来ました。ここの常勤の病理の先生は、この世に生まれたのは私より1日遅いが、医者になったのは私より1年早いという方で、東大病理学教室の先輩でもあります。

 病理部でひとしきり世間話などした後、東京へ帰る前に小田原城を訪ねてみました。非常勤の病理診断に通っていた頃も、小田原城でちょっと時間潰しの道草を食ったことも1回や2回ではありませんでしたが、最近はややご無沙汰をしておりましたから懐かしかったです。

 小田原城といえば、戦国時代に北条氏(後北条氏)による南関東支配の拠点だったことで有名で、初代北条早雲を筆頭に、2代氏綱、3代氏康、4代氏政と城主が移っていきますが、4代氏政の時に1590年の豊臣秀吉の小田原攻めをしのぎきれず落城、切腹、5代氏直は高野山へ追放されて、戦国北条氏は5代で終焉を迎えました。

 4代氏政に関しては、秀吉に敗れたことが大きな原因でしょうが、ずいぶん不名誉な逸話が残っていますね。氏政の汁かけ飯という話です。ある時氏政が飯に汁を掛けて食事をしていたが、その量が足りなくて、後からもう一度汁を掛け足した、それを見ていた父の氏康が、「
毎日汁を掛けて飯を食っているくせに、その汁の量が一度で間に合わぬとは何事か、一膳の飯を食うのに必要な汁の量が最初から分からぬような器量では、これから先この領国を治めていくことはできぬ、北条氏も俺の代で終わりか」と嘆息したという話です。

 確かに氏政の代で豊臣の小田原攻めを受けて落城したわけですから、氏康の予言が的中したと言えますが、おそらくこの逸話は後世の創作でしょう。北条贔屓の後世の人々の、氏政がもうちょっとしっかりしてくれてたら北条氏も滅びずに済んだものを、というやり場のない口惜しい気持ちがこういう逸話になったと思われます。
 応援しているプロスポーツチームが負けた時など、あの選手のプレイが悪かったと敗戦責任を負わせるだけでは物足りず、日常の心掛けや素行が悪いなどという人格攻撃にまで発展することがあるのと同じですね。氏政に関しては、刈り入れたばかりの稲だったか麦だったかを見て、あれですぐに飯にしようと言ったなどという無知ぶりを笑う話まで残っています。

 まあ、それはともかく、汁かけ飯の話の内容自体は、我々もいろいろ自戒しなければいけない要素を多々含んでいます。氏政の話に最も近い例としては、レストランのバイキングでたくさん料理を取ってきて結局は食べきれずに残してしまう、バイキングでなくてもメニューを見ながらあれもこれもと注文した挙げ句、食べきれなかったという情況があります。
 自分の食べられる量を最初から把握していなかった、現在の空腹を満たすのに必要な食べ物の量を推し量ることができなかった、ということですから、レストランなどでそういう人を見ると、北条氏政にはたぶん濡れ衣で申し訳ないですが、こんな人が自分の上司だったらイヤだなと思ってしまいます。

 食べ物の話ばかりではありません。自分の作業能力や空き時間の限界を越えていろんな仕事を引き受けてしまう人も問題です。そんな上司(城主)に仕えたらたまったものではありませんね。アメリカと戦争できると思っていた戦前の軍政家たちが、もし氏政の汁かけ飯の話をもっと切実な教訓として受け止めていてくれたらと残念です。

         帰らなくっちゃ