聖蹟桜ヶ丘

 今回はまたずいぶんローカルな街の紹介ですが、聖蹟桜ヶ丘は新宿から高尾方面行きの京王線特急で約30分、急行で約40分の距離にあり、多摩川とその支流の大栗川に挟まれて、多摩ニュータウンに隣接する住宅街と、京王百貨店を中心とした商業地域よりなる瀟洒な街です。聖蹟と言うから弘法大師みたいな人がやって来たら桜の花がパッと咲いたような地名ですが、実際は明治天皇の御狩場があったから“聖蹟”だそうです。

 ところで聖蹟桜ヶ丘がどこにあるのか知らなかった人の方が多いでしょうが、スタジオジブリのアニメファンなら、1995年公開の長編アニメ「耳をすませば」(柊あおい原作)の舞台のモデルになった街だということは御存知だったに違いありません。妖怪や妖精が活躍したり、天空の城や動く城が登場して現実離れした設定の多いジブリ作品にしては珍しく、実際に若い人たちの身に起こりそうな出来事を題材にした「耳をすませば」でしたが、背景の絵の中には聖蹟桜ヶ丘駅前や周辺のスポットがほぼ実物どおりに描かれていました。もちろん作中の街の名前は聖蹟桜ヶ丘ではなく、杉の宮です。

 あの作品のラストは、昇る朝陽の中で主人公の月島雫が好きな男子の天沢聖司から想いを告白される場面でしたが、2人の眼下には次第に朝靄が晴れていく杉の宮の街の景色が印象的でした。確かに聖蹟桜ヶ丘の南側には丘陵の高台が広がり、東には東京副都心の高層ビル街も望めて、地理的な位置関係はちょうどあの映画の情景どおりなのですが、実際に高台に登ってもあのシーンのようには見えず、その視点は上の右側の写真くらいの高さです。
 制作者の方々はやはりあの綺麗な物語のエンディングにふさわしく、若い2人が朝靄の街を見下ろす視点をもっとずっと高い所に設定されたのでしょう。だから見終わった後に何か清々しさの残る情景でした。


 ところで私事になりますが、聖蹟桜ヶ丘は私が今の学科で受け持っている学生さんたちと初めて出会った街でもあります。京王線(「耳をすませば」の中では京線となっていた)聖蹟桜ヶ丘駅前からバスに10分ほど乗ると、大学の八王子キャンパスに着きます。
 新入生は最初の1年間はここに通うことになっていて、私が受け持っている臨床検査学科の学生さんたちも入学後1年間はこちらの八王子キャンパスに在籍していたわけです。だから私たち教員も普段は板橋キャンパスにいるのですが、1年に何回かは八王子に出向かなければいけない。これは大変な負担でした。

 特に私のように卒業後30年近くも病院の現場で働いてきた医師にしてみれば、学生の専任教育なんて面倒なだけで、面白くも何ともなかったんですね。どうせ若い学生どものほとんどはろくに勉強もしないだろうし、礼儀も知らないだろう、そんな先入観を捨てきれないまま、いよいよ第1期の新入生を迎えました。
 ところが八王子キャンパス講義の初日、講義を終えて校舎を出てしばらく行ったあたりで驚くことがあったのです。1期生の私の講義はこの写真の12号館であったのですが、とにかくマンモス大学のことですから、校舎を出ればいろんな学部の学生たちがウヨウヨいます。どれがウチの学科の学生かなんて区別もつきません。

 そういう学生の波をかき分けて歩いていると、突然1人の女子学生が、
「先生、今日はありがとうございました」
と声を掛けてきてくれましたが、これには正直言って私も驚きました。
 今時こんな礼儀正しい学生がいるのか、どころではありません。そもそも私自身が学生時代、まだお互いに面識もない教師と初日にすれ違ったって、軽く会釈はしたでしょうが、あんな丁寧な挨拶までしなかったと思います。

 思えばあれがウチの学科の学生さんたちとの“未知との遭遇”でした。よく大人は「最近の若い者は…」などと言ったり言われたりしましたが、自分が若かった頃のことを忘れているだけで、実はそんなことはないんですね。
 とにかくそんな事があって何か清々しい気持ちで、翌年に控えていた2年次以降の専門課程のカリキュラム作成にも、ずいぶん張り合いが出ました。聖蹟桜ヶ丘は私自身の残りの人生の中でも、そんな思い出を秘めた街になりそうです。

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