仙台・広瀬川

 晩秋の仙台です。晩秋といってももう12月のことです。12月になってもまだ紅葉の見頃ということで、いかに地球温暖化が身近に迫ってきたかを実感できますが、今回はその話ではありません。
 私の関係しているある学会はよく仙台で大会を開き、ここ10数年間で私が仙台を訪れたのはこれで4回目か5回目です。私は仙台に来るたびに青葉城に登った後、広瀬川沿いを散策するのですが、実は広瀬川あたりには昔から一つだけ気になることがあるのです。

 私が初めて仙台を訪れたのは、まだ小児科医だった頃の昭和50年代中頃、やはりある学会に参加するためでした。まだ東北新幹線が開業するよりはるかに昔のことです。仙台駅前から西に向かって伸びる主要街路の中で最も北側の定禅寺通り(写真上)が広瀬川に突き当たって西公園になっているあたりに仙台市民会館があり、昔は仙台の学会会場と言えばここしかなかったと思います。
 その時の学会の休憩時間に、私は市民会館裏手の広瀬川の河原を散策してみました。現在では河原を散策できるような小径は見当たらないようですが(写真下)、当時はまだ公園も整備されておらず、小石がむき出しになった土手が続いており、小さな木橋があったりして、スーツに革靴ではかなり歩きにくかったような記憶があります。


 この辺を歩いていた時、私は木橋のたもとに思わぬ歴史の遺物を見つけて驚きました。キリシタンの神父を広瀬川の冷たい流れに漬けて殺した水牢の跡です。正確な場所も覚えていないのですが、キリシタンの歴史にはほとんど興味のない私が覚えているくらいリアルで衝撃的な光景でした。きちんと説明のパネルも立っていたから、こういう歴史的事情も判ったのです。
 歴史によれば、仙台伊達藩は最初は西欧文化吸収のためにキリシタンを保護したが、後に幕府の意向に逆らえなくなって弾圧に転じたとあります。そして1624年の真冬にポルトガル人のカルヴァリオ神父と日本人信者8人が捕らえられて、広瀬川の大橋の下の水牢に漬けられて殺されたそうです。

 現在でもキリシタン殉教の碑は建っていますし、歴史博物館や郷土資料館などにはそういう拷問装置の展示もあるかも知れません。しかし右の頬を殴られたら往復ビンタで倍返しするような非キリスト教徒の私ですら鮮明に印象に残ったのは、やはりそれが実際に広瀬川の流れの中に残っていて、今でもその気になれば誰かを水責めにできるほどの現実感を保っていたからです。
 あれがカルヴァリオ神父らを責め殺した時のものだったのか、あるいはもっと末端のキリシタンを殺した時のものだったのか、今ではよく覚えていません。どうせ再び仙台に来ればまた見られるものとばかり思っていたからなのですが、その後何度も仙台を訪れて探してみましたが見つかりません。広瀬川殉教の跡を探訪した方々のサイトやブログを検索しても、あの生々しい水牢の写真を載せている人もいらっしゃいません。(どなたか昭和50年代当時の事情をご存知でしたらお知らせ下さい。)

 私が思うに、今や仙台市有数の公園地帯として整備された広瀬川一帯の西公園、そんな市民の憩いの場に残虐な水責めの生々しい遺跡などふさわしくないと考えて都市計画を進めた人がいらしたのではないでしょうか。こうしてキリシタン殺害の現場は体裁の良い殉教碑として、あるいは博物館や郷土館の資料として一片の歴史的記憶に昇華してしまいました。
 せっかく昭和50年代頃まで残っていた歴史の証人である現場の状況を撤去してしまった、あるいは人目に触れにくい場所に移動してしまったのは何故でしょうか。他の国々でも同じことかも知れませんが、自国の生々しい歴史の爪跡はできるだけ隠そうという意図もありそうです。こうして日本でキリシタンを弾圧して責め殺した歴史は、うわべだけ奇麗に塗り替えられました。そしてそれと同時に、当時の西欧人宣教師によるキリスト教布教は、現在の信教の自由などという美名とは程遠い侵略者の手先であったという血塗られた歴史的事実を振り返る機会もまた一つ失われました。

 歴史とは恩讐を越えた諸国間・諸民族間の相互作用の累積であります。自国にとって都合の悪い事実を隠せば、他国の非道をも闇に葬ることになるし、また他国の非道ばかりを責めれば自国に不都合な事実もまた浮き上がってくるのです。声高なナショナリストや、体裁や世間体ばかり気にする人には、日本人と他国人とを問わず、歴史を語る資格はないと思います。

            帰らなくちゃ