石神井公園

 私の自宅から自転車で20〜30分も西へ走ったあたりに石神井公園という都内でも有数の公園があります。西武池袋線には「石神井公園」という駅もあるので、御存知の方もおられると思います。東京23区内ですが、ご覧のように石神井公園には鬱蒼と樹木の生い茂る三宝寺池をはじめとする武蔵野の自然が残されており、気分転換にはなかなか良い所です。池の真ん中には弁財天を祀ったお堂が建っていますが、その他はほとんど手つかずの自然で、葦が茂る水辺には水鳥が戯れています。

 この池の南側には、かつて15世紀頃までこの練馬の地に勢力を張った豊島氏の居城、石神井城がありましたが、広さは東西南北それぞれ約350メートル四方で、後の戦国大名の城に比べると、ずいぶんこじんまりしていたようです。豊島氏は平氏の流れらしいですが、その後は源平の間でさんざん苦労して、鎌倉時代には今の板橋区中里あたりに所領を安堵されるに至り、さらに石神井川に沿って上流へと勢力を拡大して、今の豊島園に練馬城、石神井に石神井城を築いたとされています。
 しかし1476年、関東管領の跡目争いを巡って長尾景春が挙兵すると時の石神井城主 豊島泰経はこれに呼応して、江戸城の太田道灌と河越城の上杉氏に対抗しました。江戸と川越を分断する要衝に位置する練馬城・石神井城をめぐって豊島氏と太田道灌の攻防が続き、私がかつて住んでいた江古田・沼袋あたりでも激しい合戦が行なわれたといいます。

 これらの合戦については吉川英治も司馬遼太郎も書いてくれていないし、NHK大河ドラマにもなっていないので、後の川中島とか長篠とか関が原の合戦ほどにはイメージが湧きませんが、まだ鉄砲も無かった時代ですから、おそらく数百人規模の雑兵同士が刀で切り合い、槍で突き合う凄惨なものだったかも知れません。石神井川の流れも鮮血で染まったか…。
 かくして1477年4月、石神井城は太田道灌の軍勢に攻められて落城の憂き目となりました。城主の豊島泰経は一旦は降伏するふりをして道灌を欺こうとしますが、結局は見破られて攻め落とされます。(中世の頃までの日本人はこういうことも卑怯とは考えず、軍略の一つと見なしていたわけですね。)

 泰経は生命からがら城を落ち延びたのですが、その後、石神井の地には不思議な伝説が語られるようになりました。泰経は眩いばかりの鞍を置いた白馬に跨ったまま、三宝寺池に馬を乗り入れて自害、泰経には照姫(ツル姫ではない)という美しい娘もいたが、彼女もまた父の後を追って入水したというものです。悲しい伝説を秘めた池で、最近では照姫祭りという行事も毎年恒例で行なわれていますが、史実としてはやや疑わしいところがあります。

 さて今回、石神井公園をご案内したわけは、先日久し振りに訪ねてみたら三宝寺池のほとりに山吹と思われる黄色い花が咲いているのを見つけて、先程も話が出た太田道灌の話を思い出したからです。道灌の山吹伝説を知らない人は少ないでしょう。

 道灌が山狩りの最中、突然の豪雨に襲われ、蓑(雨具)を借りようと近隣の農家に頼んでみたところ、娘が出てきて盆に乗せた一輪の山吹の花を差し出したという。雨具を借りようと思ったのにクソの役にも立たない花なんか持って来やがって、と御機嫌斜めで帰城した道灌、さっそく家臣にその鬱憤をぶちまけたところ、家臣が言うには、醍醐天皇の皇子中務卿兼明親王が詠まれた和歌(後拾遺集)、

 七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき

を、「実のない」→「蓑ない」に引っ掛けて、お貸しする蓑が無いことを恥じたのではないでしょうか、とのことだった。道灌は山里の無学な娘よりも教養が劣っていることを思い知らされ、その日を境に和歌の道にも励むようになったというのが山吹伝説です。

 ちょっと出来すぎた話ですが、私たちは子供の頃から周囲の大人たちにこの話を聞かされていました。私の実家はちょうど道灌が山狩りに来たあたりにありました。と言ったって、別に道灌が当日どのコースを通ったかなんて正確な資料があるわけではありませんから、東京の子供たちは誰でも自分の家の近くに太田道灌という偉い人が遊びに来たと思ってしまうわけです。そうしたら雨に降られて蓑(今のレインコートみたいなものよ)を借りようとしたら、女の子が出て来て山吹の花を持ってきて…、と大人たちは説明を始めます。しかし「実のなき」→「蓑なき」をどのように幼稚園や小学校の子供に解説したのか、今では忘れてしまいましたが、結局は勉強しないと将来恥ずかしいよということで言いくるめられてしまうのでした。
 この山吹伝説の真髄は、あまり学校の勉強とは関係ないと思うのですが、確かに昨今の日本を見ていると、ウケ狙いの駄洒落やギャグはずいぶん聞きますが、こういう古典や名作を引用した風流な趣のある教養は少なくなりましたねー。

                帰らなくっちゃ