信越本線

 小学生の社会科の時間、江戸時代の五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)などと並んで、東京から発車する国鉄(今のJR)の主要本線の区間など覚えさせられたものでした。江戸時代の東海道が53次の宿場町で日本橋から京都までつないでいたのに対して、国鉄の東海道本線は起点の東京駅から神戸駅まで、というのが当時のいわゆる“中学校お受験”の引っ掛け問題だったことなど思い出します。

 東京都内からは他にも東北本線、中央本線などのほか、なぜか「本線」とは呼ばれず「支線」の扱いに甘んじている上越線や常磐線など、幹線クラスの大きな鉄道路線が何本か発着していますが、中でも私のこれまでの人生で最も郷愁をそそる信越本線について今回はご紹介します。

 ところで私の知っている信越本線は、群馬県の高崎まで高崎線に便乗して、そこから横川、軽井沢、上田、長野、妙高高原などを経由、新潟県の直江津で北陸本線に合流して新潟へ向かう、いわば日本列島の背骨を貫通する壮大な一大本線だったはずですが、長野新幹線の開業とともに横川〜軽井沢間は廃線になり、しかも軽井沢〜篠ノ井間はしなの鉄道に経営移管されました。1997年のことです。

 次いで2015年、長野新幹線が金沢まで延長されたのに伴って長野〜直江津間もしなの鉄道とえちごトキめき鉄道に経営移管されて、かつての信越本線は高崎〜横川、篠ノ井〜長野、直江津〜新潟の3つの区間に完全に分断されてしまいました。もはや「本線」の態をなしていないと言うべきでしょう。
 そればかりか東京と金沢を結ぶ新幹線は「信越新幹線」ではなく、「北陸新幹線」と命名されて“信越”の名前も消えました。かつて同じく東京と新潟を結びながら本線になれなかった上越線には「上越新幹線」が平行して建設されたというのに、信越本線のこのさびれ方には哀愁以上のものを感じます。

 この夏の終わり(2016年)、27年ぶりに信州の軽井沢を訪れましたが、信越本線の線路は依然として堂々たる風格の複線で長野方面へ伸びていました。しかし現在ではこの線路を3両編成くらいのしなの鉄道の列車が1時間に2本か4本のどかに走っていくだけです。

 中学・高校時代のスキー合宿や職場でのスキー旅行で、信越本線の妙高高原駅まで仲間たちとワイワイやりながら鉄路を渡って行った、高架の上から線路を見下ろしていると、そんな思い出が次々と脳裏をよぎりました。

 私がスキーを始めたいわばホームゲレンデは信越本線沿線の燕温泉、赤倉温泉で、ここは本州では最も雪質が良いと言われていたゲレンデでした。信越本線の妙高高原駅(最初の頃は田口駅といった)で降りて、バスと徒歩で登って行くのですが、上野を夜行列車で発って、早朝の長野駅で駅弁を買って食べた思い出など鮮烈です。

 この写真は中軽井沢あたりから軽井沢方面を望んだものですが、線路の向こう側に朝霧のかかっているのはたぶん矢ケ崎山という標高1184メートルの山で(軽井沢自体が高地で標高が高いからそんなに高く見えない)、この山の麓に私の中学・高校の寮がありました。中学1年生は全員ここで夏期合宿(山上学校;他校では林間学校ともいう)を10日間ほどやりますが、私の場合はさらに音楽部の夏の合宿のためほぼ毎年、合唱とブラスバンド合わせてこれも10日間ほど寝泊まりしました。(追記:翌年再度確認したら、これは矢ヶ崎山ではなく、標高1256メートルの離山
(はなれやま)でした)

 その後、軽井沢は観光地として開発が進み、そんな贅沢な場所は青少年の教育にふさわしくないという結論に達したのかどうか、中学・高校の寮(青山寮といった)は閉鎖され、今ではプリンスホテル系列のスキーゲレンデや、大賀ホールに隣接する矢ケ崎公園として整備されていますが、あの頃は矢ケ崎山の麓の寮の前に信越本線の踏切があり、東京方面と結ぶ列車が1日に何本も通っていました。
 中学1年生の山上学校へ出発する前に、ここを通る夜汽車が鳴らす汽笛で家を恋しがって布団の中で泣く生徒が毎年いるぞと、ニコニコ笑いながら脅していた先生もいらっしゃいましたし、音楽部の合宿では合唱とブラスバンドの交代の時には東京からやって来る部員や東京へ帰る部員たちと合宿中の部員たちが列車と踏切の間で手を振り合ったりしたものです。

 ところで軽井沢〜横川間は鉄道路線として日本一急峻な碓氷峠を越えなければならず、この踏切を通る列車はどんな特急電車も急行電車も前引き後押しのEF63型という電気機関車を接続していました。普通の電車だけではあの碓氷峠の勾配を登れないわけですね。
 さらにそれ以前は列車の歯車ギアを補助レールのギザギザに噛み合わせて勾配を登るアプト式という方式で碓氷峠を越えていたそうですが、残念ながら私がよく軽井沢へ行くようになる少し前に廃止されたので記憶にありません。

 さて電気機関車を接続して碓氷峠越えをしていた時代は、東京から軽井沢に行く時は一つ手前の横川駅で機関車着脱のためかなり停車時間がありました。それで有名なのが横川駅の駅弁『峠の釜めし』ですね。素焼きの釜にいろいろな具材を炊き込んだご飯が珍しくて、当時は信越本線で碓氷峠を越える観光客の大半が、横川駅での機関車着脱の時間にこの釜飯を買ったはずです。

 私も高校時代の音楽部合宿の折に買った釜飯の釜を2つほど手元に残しておいて、後年の浜松勤務医の独り暮らしではこれで一合飯を炊くことができた、そんな話をしたら職場の年配の看護師さんや助産師さんからとても感心されたものです。

 今では軽井沢から横川へ伸びる線路は廃線になっていて、ご覧のように車止めが設置されており、その向こう側を北陸新幹線のスマートな車両が通り過ぎて行きます。かつての信越本線を知る者にとっては何とも寂しい光景ですね。

 …とここまで書いてふと思ったのですが、私たちの世代は無くなってしまったもの、いつの間にか消えてしまったものでも、取りとめない思い出が後から後から湧き出てくるという体験をたくさん持っています。今の若い世代の人たちの多くも同じでしょうか。街中などのスポットでゲットしたポケモンなんかもやがていつかは消えてしまいますが、そういうゲーム機で遊ぶことが多かった人たちの脳裏には20年後30年後にどんな思い出がよぎるのか、他人事ながら心配になってしまいます。

         帰らなくっちゃ