横浜港(氷川丸)

 これは横浜港の山下公園に繋留されている客船 氷川丸ですが
、この船はもうここを出港することはありません。昭和5年(1930年)に完成した氷川丸(11,622総トン)は今では役目を終えて、かつての母港のシンボルとして繋留保存されているのです。
 なかなか垢抜けた優雅な姿を持つこの船は、戦前の太平洋横断航路の花形客船で、外国の船会社の優秀船に対抗するために建造された日本郵船の氷川丸型姉妹船(氷川丸、日枝丸、平安丸)の1隻でした。現在のように大型ジェット旅客機で大陸間を一跨ぎすることなど夢のまた夢であった時代には、このような豪華客船が海外との掛け橋の役割を果たしていたのですね。
 氷川丸型3隻は、横浜―シアトル航路に就航していましたが、同じ太平洋横断航路でもサンフランシスコ航路には、やはり日本郵船の一回り大型の浅間丸型3隻(16,947総トン)が活躍していました。外国のライバル船にはEmpress of Japan(26,032総トン)やPresident Hoover(21,936総トン)など総トン数で上回る客船もありましたが、浅間丸型3隻(浅間丸、龍田丸、秩父丸)は太平洋の女王と呼ばれて世界的に有名だったようです。
 中でも秩父丸の名前については面白い話があって、国際情勢の悪化に伴って船名のローマ字標記も日本式に統一することになり、「Chichibu」から「Titibu」と改めざるを得なくなりました。ところがTitibuの最初の3文字"
tit"は乳首を表すスラングだったので、アメリカ人から”オッパイ号”と嘲笑されると心配したのでしょう。そこで苦心惨憺したあげく、船名自体を鎌倉丸と改めました。平仮名標記の「ちちぶまる」も似たような卑猥なイメージが無いとは言えないと思うのですが、こんなところにも人目や世間体を憚る日本人の狭量さが見えてしまいます。

 それはともかく、戦前は太平洋航路ばかりでなく、欧州航路や南米航路、大陸航路にも多数の優秀客船を配して、我が世の春を謳った日本の海運界でしたが、太平洋戦争ではほとんどの船が軍に徴用された結果、戦火の中で海の藻屑と消えてしまいました。終戦時、1万トン以上の客船で残っていたのは氷川丸ただ1隻だったそうです。氷川丸は海軍の病院船となっていたため、連合軍の攻撃を免れたのですが、戦時下の異常な状況ではパイロットも潜水艦長も常に冷静な判断を下すのは無理というもので、病院船でありながら誤認されて撃沈されてしまった船も多数ありました。やはり氷川丸は運が良かったのでしょう。昭和20年(1945年)4月の沖縄戦では米軍の病院船にも特攻機が命中、看護婦6名を含む約40名が戦死するという双方にとって痛ましい事例もありました。

 こうしてただ1隻生き残ることとなった大型客船氷川丸は戦後も復員輸送などに従事した後、再びシアトル航路に返り咲きますが、すでに時代の主役は定期航路の客船から飛行機へと移っており、氷川丸もついに昭和36年(1961年)に現役を引退することになりました。そして一時はスクラップ化の話もあったのですが、関係方面の努力により横浜港のシンボルとして現在の場所に永久保存されることになったのです。
 しばらくはユースホステルとして船内に宿泊することも出来、私も昭和48年(1973年)の夏に泊まってきましたが、それから間もなく宿泊施設は廃止されて、内部を巡回するだけの記念館になってしまいました。その当時は船体も白とライトグリーンに塗装されていましたが、昭和63年(1988年)暮れ、黒を基調とした塗装に戻されました。シアトル航路で活躍した日本郵船時代の塗装です。やはりナイトドレスに身を包んで正装したような引き締まった感じがありますね。


 こちらは昭和52年(1977年)頃の春、英国のクイーン・エリザベス2世号(Queen Elizabeth 2)が横浜に寄港した時の写真です
。船のファンはこの豪華客船を親しみをこめてQE2(キューイーツー)と呼びます。手前のライトグリーンの船が氷川丸ですが、66,450総トンの巨船と比べると、まるで大人と子供ですね。これは港の見える丘公園から氷川丸を挟んで、大桟橋に横付けしたQE2を望んだカットです。船は港の出口の方を向けて繋留すると、横須賀臨海公園のページで書きましたが、大桟橋に停泊する客船は大体反対側を向いています。横浜を訪れたお客様ですから、どうぞごゆっくりという意味なのでしょうか。
 氷川丸が引退してから10年も経たないうちに、世界はクルーズ客船の時代を迎えました。つまりかつて定期航路の客船で海を渡ったような人たちは旅客機を利用するようになったのですが、余暇とお金を持った人たちが豪華客船でのんびり世界各国を旅するような時代になったのです。QE2が就役したのは1969年、その後この船を上回るような豪華客船が世界中ですでに何十隻も建造されて活躍しています。QE2は2004年の春も横浜に来港しましたから、すでに現役生活は氷川丸よりも長くなりました。
 氷川丸は戦時中に海軍の病院船となりましたが、QE2の方も1982年のフォークランド戦争では軍隊輸送船として従軍しました。アルゼンチン軍は女王陛下の名を冠する本船を英国空母に次ぐ重要目標としていたようですが、護衛艦の喪失が相次いだ中、無事に帰還して再びクルーズ客船として活躍するようになったのは何よりです。

 もし氷川丸に心があるなら、母港の岩壁に憩いながら何を思っているでしょうか。おそらく太平洋に沈んだ今は亡き姉妹たちを偲びながらも、自分もあと少し頑張っていればクルーズ客船としてもう一花咲かせられたのに、と残念がっていると思うのです。そして折々に横浜港を訪れる外国や日本のクルーズ客船たちに昔話を聞かせてやった後、またおいで、と航海の無事を祈って見送ってあげているのではないでしょうか。上の写真を見ていると、氷川丸とQE2の会話が聞こえてくるようです。

                帰らなくっちゃ