独り旅

 “独り旅”という言葉には何となく郷愁を誘う響きがあり、私も若い頃から独り旅に憧れていた。ジェリー藤尾さんの「遠くへ行きたい」という歌もあり、これは当時の高校や大学の文化祭で歌われる歌集には必ず入っている名曲で、これを聴いていると本当にどこかへ飛んで行ってしまいたいような不思議な気分になったものである。

 
知らない街を歩いてみたい
 どこか遠くへ行きたい
 知らない海を眺めていたい
 どこか遠くへ行きたい
 遠い街 遠い海
 夢はるか 一人旅
 (作詞:永六輔、作曲:中村八大 昭和37年9月発売)


 歌はこの後、愛する人とめぐり逢いたい…と続くのであるが、当時はそれはこの際どうでもよかった。とにかく一人で旅に出て、知らない街を当てもなくほっつき歩き、知らない海をボケーッと見ていられたら、自分に何か起こるんではないか、自分が何か変わるんじゃないかと、漠然と思ってみたりしたものだった。まあ、今で言う「自分探しの旅」みたいなものである。

 それで大学に入ってから、新潟を皮切りに関西、北海道、はては南半球のオーストラリアまで一人で旅をしてみることになったわけだが、果たして“自分”は見つかったのだろうか。今回は私が独り旅で“見つけた”ものについて書いてみようと思う。

 そもそも独り旅(一人旅)などしたいと考える人間は、どちらかというと社交的でなく、どこか世間から遊離したがる傾向があり、人間を明と暗に分類すれば暗い部類に入る人間の方が圧倒的に多いのではないか。私もその一人である(あった?)し、また私のカミさんなどは決して一人旅などしようとは思わない部類の人間であろう。
 かつて私が一人で旅行に出ようと思った時には、やはり世を拗ねた気分が全然なかったとは言えない。旅先の風物を誰にも遠慮せずに気兼ねなく見て回りたいという好奇心ももちろん強かったけれど、それと同時にあの頃は「
どうせ自分なんかに付き合ってくれるヤツなんて誰もいないだろう」といういじけた気持ちもあったと、今にして正直に書ける。
 この「どうせ自分なんか」という気持ちこそが人生の大敵なのである。どうせ自分なんか誰も相手にしてくれない、どうせ自分はバカにされる…。そうやって
自分がどんどん傷ついていって、そういう自分の傷を見た周囲の人がもっと傷ついていることまでは気付かない。そんな傷つきやすい自分など捨ててしまった方が幸せだ。

 なまじ自分など探すなと私は言いたい。旅に出るなら自分を捨てに行くべきだ。旅に出るといろんな土地にいろんな人たちが生活していることを、いやでも見聞することになる。日本中で一億人、世界中で何十億人という人たちが、みんなそれぞれ自分の人生を大事にしながら生きていると思えるようになる。
 しかも旅をするには、寅さんではないけれど、土地土地のお兄さんお姉さんに御厄介かけがちなのであって、列車やバスの運転士さんや宿の人たちをはじめ、多くの人たちの助けが必要だ。人間一人では何もできない。独りで旅に出ているとなおさらそう思う。いじけて傷つきやすい
自分などさっさと旅先で処分して、早く家や学校や職場に帰ろう。“旅人”を志願する若い人たちには、そう素直に思えるようになるまで旅を続けなさいと言っておく。



 サン・テグジュペリの「星の王子さま」は、故郷の星(小惑星B-612)に咲いているバラの花とうまく行かなくて、夕日を見ながら悲しく辛い想いをまぎらわしていたが、ある日とうとう我慢できなくなって一人で旅に出る。そしていろんな星を回って、最後に地球にやって来て、いろんな人や動物や花と出会ううちに、あのバラの花の気持ちも理解でき、自分がバラの花に十分なことをしてやっていなかったことにも気付き、自分の星に帰らなければいけないと決心する物語である。(ただあの物語の方法では本当に故郷に帰れたかどうか心配なのだが…)
 もしかつての私と同じように、少しでもいじけた気持ちで独り旅に出たいと思っている人がいたら、ぜひ旅の案内書として「星の王子さま」をお読みになったらいいと思う。

              帰らなくっちゃ