津軽海峡


 昭和50年代の津軽海峡です。私は学生時代から旅行や学会で10回以上も北海道へ行きましたが、そのうち4回半は津軽海峡を連絡船で渡りました。石川さゆりさんの大ヒット曲「津軽海峡冬景色」(昭和52年)の歌詞のように、上野発の夜行列車を降りて、朝の青森桟橋から連絡船に乗ると、これから始まる北海道の旅に心ときめいたものです。また帰りも午後の連絡船で函館を出港する時は何だか感傷的な気分にもなりました。この写真は北海道の旅を終えて、夕暮れの陸奥湾に入って来た時の一葉で、残ったフィルムですれ違う連絡船を撮影したものです。露出が完全に失敗していますが、私の旅行の写真のお気に入りであることに変わりありません。青函連絡船は昭和63年3月に廃止されてしまいましたが、この写真を手に取ると後部デッキで潮風に吹かれていたのが、つい先日のように思い出されます。

 最近の北海道旅行は、飛行機を使わない人でも、豪華な設備が売り物の特急夜行列車「北斗星」や「トワイライト・エクスプレス」、関東方面からは東北新幹線から乗り継いだ特急「スーパー白鳥」などで、青函海底トンネルを走り抜けるだけで、津軽海峡の荒波を渡って行く人は非常に少数となりました。確かに青森を出た特急列車は2時間前後で函館に到着し、3時間50分かかっていた青函航路の所要時間は大幅に短縮されています。(さらに乗船待ち合い時間まで入れれば4時間半〜5時間は見積もらなければならないでしょう。)

 しかし所要時間も半分になった代わりに、旅情も半減しました。
石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」など、
 
ごらん、あれが竜飛岬、北のはずれと〜
見知らぬ人はどこを指差すというのでしょうか?そこには列車の天井灯が白々とした蛍光を放っているだけです。
 北島三郎さんの「函館の女」(昭和40年)にしても、
 
はるばる来たぜ 函館へ〜
と言われても、逆巻く波の下をくぐって寝台列車で寝て来たのでは、女の方も情が湧かないのではないでしょうか?
 津軽海峡を連絡船が行き交っていた光景を知らない世代も増えてきました。私がかつて船内の売店で買い求めた青函連絡船の絵葉書を何枚かスキャンして、彼女たちの勇姿を偲んでみたいと思います。

羊蹄丸 松前丸
摩周丸 八甲田丸
津軽丸 函館を出港する八甲田丸

 御覧のように大変カラフルな船が津軽海峡の荒波を越えて、青森と函館の間を結んでいたのです。私も北海道旅行のたびに、今回は何色の船だろうということも楽しみの一つでした。
 これらは貨客船として建造された津軽丸型7隻のうちの5隻で、全長132m、8279総トン、航海速力18.2ノット、鉄道貨車48両の他に旅客定員1200名。船名は津軽丸、八甲田丸、松前丸、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸と青森と北海道の地名をつけて、それぞれ昭和39年から41年にかけて次々と就航しました。
 昭和29年9月の台風で1173名の犠牲者を出し、タイタニック号に次ぐ海難事故とされる洞爺丸事件の教訓を取り入れて安全性を重視し、さらに輸送力増大に対応した自動化・省力化を施された優秀船です。これらのスマートな連絡船で津軽海峡を渡った4時間足らずの船旅は、たった延べ9回でしたが、非常に強く印象に残っています。青函トンネルが開通して連絡船の廃止が決まった時、何とかしてお別れに行きたかったのですが、ついに果たせませんでした。
 何隻かは、横浜の氷川丸や横須賀の戦艦三笠のように記念館として活用されており、そのうちの1隻、羊蹄丸は東京お台場の船の科学館に浮かぶパビリオンとして保存されています。お台場で再会した羊蹄丸の姿を載せておきます
。ちょっと懐かしかったです。船尾の旗が立っているあたりが航海中の私の指定席でした。



 また津軽丸や松前丸は引退後に北朝鮮へ売却されました。いまだに外交関係が複雑な国ですが、現在でも朝鮮半島のどこかで運航されているのでしょうか。とっくに船舶としての耐用年数を過ぎているだけに、海難事故など起こさぬよう、無事を祈るだけです。

                      帰らなくっちゃ