過去

 過去へ行って来ました。どんなに出不精で旅行嫌いな人でも、過去を旅して来ているんですよね。人生は旅だ、なんてセンチメンタルな気持ちになっているわけではありません。
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
という芭蕉の文章も好きですが、私の場合、過ぎ行く時間のイメージは三島由紀夫の「金閣寺」に影響されているようです。ちょっとその部分を引用してみましょう。

 
私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方に流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかと踏ん張っていればよかったのだ。
 そうして考えると、私には金閣そのものも、時間の海をわたってきた美しい船のように思われた。美術書が語っているその「壁の少ない、吹きぬきの建築」は、船の構造を空想させ、この複雑な三層の屋形船が臨んでいる池は、海の象徴を思わせた。金閣はおびただしい夜を渡ってきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、昼の間というもの、この不思議な船はそしらぬ顔で碇を下ろし、大ぜいの人が見物するのに任せ、夜が来ると周囲の闇に勢いを得て、その屋根を帆のようにふくらませて出帆したのである。


 いかにも三島らしい文章ですが、あらゆる事物が四次元の流れの中を通過していくイメージが見事だと思います。ある時、夕陽を眺めていたら、このイメージが私の頭の中で空間に置き換わりました。
 半年前はあの太陽の向こう側にいたんだなあ。
それは冬の夕方のことでしたが、突然、半年前の暑かった季節のことが思い浮かびました。光速でさえ7分もかかる距離にある太陽の、さらにちょうど反対側!その途方もない場所を思い描いた瞬間、夕空の中に当てはめた地球の軌道こそが、我々が時間の中に残してきた足跡なのだなあ、としみじみ感じたものです。
 まあ、天文学的には、太陽系も銀河系の中を移動している、とか、大宇宙そのものも膨張しつつある、とかいう理屈もあるけれど、人間の通常の感覚で認識しうる最大の座標の中心はやっぱり太陽ですから(天動説を信じている人にはゴメンナサイ)、それ以降、太陽の回りにグルリと想定した円周軌道を、人生の足跡になぞらえています。あと何周くらい回れるでしょうか?

                 
まだ旅行中