日本列島争奪戦


 日本気象協会の全国レーダーのページがお気に入りです。まだ所々に小さな雨雲がありますが、やっと日本列島の輪郭がはっきりしてきました。そろそろ「紀伊半島より大きな半島」探しに参りましょうか。

 いつの事かは判りませんし、諸説あるので、今はとにかく日本の歴史が始まる前の物語ということにしておきます。誰がこの列島の支配者になるかという血なまぐさい戦いがあった時代のことです。
 邪馬台国のページにも書きましたが、最終的には朝鮮半島から渡来した部族が戦略的に優位を占めたために倭国最強の政権を作り得たことと思います。もちろんそれよりもずっと前の時代から、朝鮮半島経由で日本列島に流れ着いた人々は多かったはずですが、彼等はバラバラに入って来たために半島や大陸から生活基盤を切り離されて列島に土着し、ある者は琉球・台湾・中国福建省や広東省・ミクロネシア方面から黒潮に乗って漂着して来た人々と融和して九州や四国に居住し(これを
南方族とします)、またある者は樺太・北海道方面から南下して来た人々と共に本州に居住し(これを北方族とします)、それぞれ狩猟生活や農耕生活を送っていたと考えられます。

 ここへある時、列島支配の明白な目的を持った一群が朝鮮半島から壱岐・対馬と跳び石を渡るようにして北九州に渡って来ました(これを
朝鮮渡来族とします)。これが現在の日本人の源流だと私は思っています。

 朝鮮渡来族は先ず南方族の迎撃を受けます。気候も温暖で土地も肥沃な九州地方には、かなり裕福で強力な政権が成立していたでしょう。しかし朝鮮渡来族は後方兵站基地としての朝鮮半島から人でも武器でも食糧でも次々と輸送してきて、北九州に橋頭堡を築いていますから、その軍事的優位は崩れません。さらに海上輸送にも熟練した朝鮮渡来族は、南方族の軍団の背後に海上から奇襲上陸して挟み撃ちにする作戦なども採用できるので、南方族は各地で苦戦を繰り返していたと思います。
 しかも朝鮮半島からの補給が期待できる朝鮮渡来族に対して、南方族は九州にあった軍団が壊滅すれば、もう後は無いのです。よく太平洋戦争に関する記述に、近代戦には補給が重要なことを日本軍は理解していなかった、と書かれていますが、補給が大事なのは近代戦も古代戦も同様なのではないでしょうか。

 以上が熊襲(クマソ)征伐として記載された南方平定の物語ですが、この戦いの終結によって朝鮮渡来族は九州が大きな島であることを知りました。そして南方族にはもはや援軍を送り込んでくる組織的な補給路が無いことを悟ったに違いありません。背後の九州の地にまだ南方族の脅威が残ったままでは、その後の東方遠征計画はあり得ないからです。こうして背後の安泰を確認した朝鮮渡来族は、北九州の橋頭堡を確保しながら、いよいよ本州の地を東へ東へと勢力を伸ばし始めました。いわゆる神武東征の物語です。

 熊襲(クマソ)征伐と神武東征は、日本人としての歴史というよりは、むしろ背後の朝鮮半島の部族による日本遠征記と考えた方が妥当な気がします。朝鮮半島に強大な軍事兵站基地が無ければ、これほどの大作戦は展開できないと思うからです。しかしその後、大和朝廷成立までの期間のどこかで、この朝鮮半島の部族は、海の向こうへ送り出した仲間たちを忘れ去ったか、あるいは朝鮮半島内での勢力争いに敗れて滅んでしまったかして、この朝鮮渡来族もまた日本列島の一員となったのではないでしょうか。

 さて東方への進撃を開始した朝鮮渡来族の目に、当時の日本はどのように映っていたでしょうか。九州と四国はすでに島であることが確認されていましたが、本州もまた巨大な島であることは判っていなかったと思います。彼等の航海術は壱岐・対馬を渡って日本列島にやって来たり、九州沿岸に水陸両用作戦を展開するくらいは可能でしたが、日本海や太平洋の複雑な海流を乗り切って津軽海峡を回ってくるような芸当は出来なかったでしょう。
 また陸路北東を目指した一団があったとしても、北方族の迎撃を受けて惨憺たる有り様になっていたに違いありません。厳しい気候と風土の中で暮らす北方族は、南方の熊襲(クマソ)に比べてまだ縄文時代の生活様式を残していたと思われ、その軍事力も大したことはなかったはずですが、何しろ北方族には「冬将軍」という強力な味方がついていました。北日本を目指した朝鮮渡来族の一団は、おそらく後世のナポレオン軍や東部戦線のナチスドイツ軍同様、冬将軍のために甚大な被害を蒙って壊滅してしまったでしょう。

 したがって北九州から東部遠征を開始した朝鮮渡来族にとって、当時の日本は次のように認識されていたはずです。

 東征軍はおそらく瀬戸内海を進む水軍と、山陽道を進む地上軍よりなっていたと思われますが、南北を海で挟まれ、行く手に未知の陸地が延々と広がっている中国地方を彼等はどのように眺めていたでしょうか。これはもちろん想像ですが、彼らの数代前までの父祖の地である朝鮮半島の地形の鏡像と捉えていたのではないかと私は思います。
 つまり未知の陸地から西へ突き出した半島を、東へ東へと半島の根元を目指して彼等は進撃を開始したのです。

 そう思ってもう一度日本全図を眺めてみて下さい。本州島の本体を青森県の下北半島から和歌山県の潮の岬までと考えると、少し北方へピンと反り上がった中国地方の方が半島と呼ぶにふさわしいと思いませんか?紀伊半島の3倍近くある巨大な半島ですね。少なくとも北九州から東方へ勢力を伸ばし始めた最初の日本人たちは、これを「半島」と認識していたように思いますが、皆さんの御意見はいかがですか?
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