白鳥の湖(米子水鳥公園)

 鳥取県米子市の郊外に、自然のままで野鳥を観察できる水鳥公園があり、私もある年の晩秋に米子市で学会が催された折、ここを訪れてみました。この公園では、カモ、ゴイサギ、ガン、オシドリ、シギ、チドリ、キジ、コウノトリ、タカ、ワシなどの仲間が全部で180種類以上確認されているそうです。
 水辺に憩う鳥たちの生態をボーっと眺めていると、日頃の疲れもどこかに吹き飛んでしまうほどのどかなものでした。鳥類は恐竜が進化して現代にまで生き残った種族である、というのが最近の定説のようですが、恐竜たちもこんなふうに水辺で群れをなしていたのでしょうか。

 ところで晩秋のこの公園の圧巻は、何と言ってもシベリアなどの北の大地から飛来した白鳥たちでした。彼らは昼の間はどこかへ餌を食べに行っているのですが、日暮れになるとこの水辺に帰って来て休むのだそうです。
 暗くなっていたので写真撮影は出来ませんでしたが(鳥たちを驚かすのでフラッシュ撮影は禁止だったと思う)、西の空の残照に黒々と浮かび上がった山の端の彼方から、白鳥の群れがリーダーを先頭に次々と帰ってきて、湖の上で大きく旋回しながら家族・兄弟ごと数羽ずつに別れて、それぞれ岸辺のあちこちに舞い降りて来るのですが、その姿の優美さ、その鳴き交わす声の哀しさは、世界中でさまざまな伝説や昔話になって語り伝えられています。

 中でも有名なのは、チャイコフスキーのバレエ曲にもなっている「白鳥の湖」でしょう。悪魔によって白鳥の姿に変えられたオデット姫は夜の間だけ人間の姿に戻れるのですが、その間にジークフリード王子からの愛の誓いを受けられれば呪いも解けるという物語です。しかしこの筋書きには幾つかのバリエーションがあって、姫と王子は悪魔を倒してハッピーエンドになるというものから、悪魔の計略で愛を阻まれた2人が共に湖に身を投げてしまう悲恋ものまであるのです。
 オデット姫の国を滅ぼした悪魔が姫を自分の妃にしようとして拒絶され、それならば他の男に奪われまいと白鳥の姿に変えてしまうところは同じなのですが、夜の間だけ白鳥から元の人間の姿に戻れるようにしたのは悪魔のイキな計らいです。これがカラスやガチョウやアヒルでは興醒めです。人間が寝静まる夜間だけは元の姿に戻して、その美しい姿を愛でていたいと思ったからでしょう。(昔は人間は昼間だけ活動したもので、夜は妖精や魔物たちの時間だったはずです。)

 チャイコフスキー作曲のバレエ「白鳥の湖」を松山バレエ団の公演で見ましたが、森下洋子さんは日本が世界に誇るプリマドンナですね。オデット姫を演じる森下さんは、手の指先が細かく震える動きも鳥の羽ばたきのようで、まるで本物の白鳥になったようでした。
 伴奏するオーケストラの団員たちは、この曲名を「白鳥の湖」と言わずに「白鳥湖(はくちょうこ)」と省略します。もっともこの曲が日本に入ってきた頃は実際に「白鳥湖」と呼んでいたそうですが、団員たちはそんな歴史的呼称にこだわっているわけではありません。ただ短く省略したいだけです。その証拠に、チャイコフスキーの三大バレエ曲と並び称される他の2曲に関しても、「クルミ割り人形」を「クルミ」、「眠りの森の美女」を「眠り」などと呼んでいました。(ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」に至っては「青ダニ」などと呼ばれているのですから、こちらはまだマシかも知れません。)

 私が子供の頃に読んだアンデルセン童話の中で、「白鳥の王子」というのがとても印象に残っています。ある国の王妃が亡くなって、11人の王子とエリザという妹が残されますが、そこへやって来た後妻が実は恐ろしい魔女で、11人の王子を白鳥に変えてしまいます。(これもカラスやガチョウやアヒルでなかったのは、継母のせめてもの良心の呵責でしょうか。)やはり夜になると人間の姿に戻って妹のエリザと会えるのですが、兄たちの魔法を解くためにはイラクサという棘のある植物で帷子(かたびら)を編んで兄たちに着せなければならないと知ったエリザは、それから毎日のようにイラクサの帷子を編み始めます。しかも最後に魔法を解くまでは一言も口を利いてはいけないのです。
 イラクサは夜中の墓地に行かなければ手に入らない、その不気味な描写は子供心にはとても恐ろしいものでした。手を血だらけにしながら無言でイラクサの帷子を編み続けるエリザに、父王までが魔女の疑いを抱いてしまい、ついにエリザは捕らえられて火あぶりに処せられることになります。まさに刑場に引かれるエリザの頭上に姿を現した11羽の白鳥たち、それに向かってエリザが11着の帷子を投げつけると、白鳥たちは元の王子の姿に戻りました。こうして魔法が解けて、やっと口を利けるようになったエリザは自分の無実を証し、継母こそ魔女であると打ち明けたのでした。
 この童話はハッピーエンドなのですが、実はエリザが最後に編んでいた11着目の帷子だけは未完成で、腕の部分だけがまだ出来あがっていなかったのです。そのため11番目の末の王子だけは片腕だけが白鳥の羽根のままだったと書いてあったのが、その後もずっと永く心に引っ掛かっていました。エリザは白鳥の群れの上に帷子を投げたのに、未完成品に当たったのが何で1番目や5番目でなく、末の王子だったのか、それとも単なる偶然だったのか、どうせならアンデルセンも全員完全に助かるようなお話にしてあげれば良かったのに…。

 その他にも、ワグナーの歌劇「ローエングリン」で聖騎士の船を引いて来たのも白鳥(実はこれもヒロインの弟が魔法で姿を変えられたものだった)ですし、アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」も実は白鳥の子だったということですし、ギリシャ神話のゼウスは人間の美女レダに浮気をして白鳥に姿を変えて近づいたのでした。(ちなみにこの時の白鳥の姿が夏の代表的な星座である白鳥座、美女レダに産ませた子供が双子座のカストールとポルックスだったと言い伝えられています)。
 このように白鳥はさまざまなキャラクターで物語の中に登場していますが、やはり日暮れの湖畔に舞い降りる白鳥の群れを見ていると、「白鳥の湖」や「白鳥の王子」のような物悲しい愛の物語が偲ばれました。

 日本でも白鳥を和歌に詠んだ詩人がいましたね。若山牧水は次のような白鳥(しらとり)の歌を詠んでいます。
   
白鳥は 哀しからずや
     海の青 空のあをにも染まずただよふ


 孤独だけれど崇高で優美な白鳥の姿そのままを詠んだ名歌だと思います。私がかつて浪人した年、卒後最初のクラス連絡会があって、出席の返事のついでに葉書の片隅に、
   
浪人は 哀しからずや
     高校生 大学生にもなれず漂ふ

と書き添えて返信したら、ある教師から「大丈夫?」と心配されてしまいました。何か私は先生方を心配させること書いたかしら、といまだに折に触れて思い出しています。

              帰らなくっちゃ