和歌山

 私も学生時代からあちこち旅行して日本国内はずいぶん回りましたが、最後まで足を踏み入れずに残っていたのが和歌山県でした。先日さる学会があって和歌山を訪れましたが、これで日本の全都道府県に足跡をつけたかと思って感無量なものがありました。

 足跡と言えば、時々地図の上に自分の足跡のイメージを思い浮かべることがありますが、やはり生活の場である東京近郊では密度が最も濃く、またかつて3年間暮らした浜松市あたりにもたくさんの足跡があります。こうして日本全国から世界の一部にまで足跡を残せた健康に恵まれたことは、何よりも感謝しなければならないことだと改めてしみじみ思いますし(自殺など考えている人は特に考えてみて欲しい)、そういう世の中に生まれたこともまた、自分で望んだわけではないけれども、やはり大変ありがたいことでした。特攻隊員を描いた映画「雲ながるる果てに」(家城巳代治監督)の中にこんなシーンがあったと思います。ある特攻隊員が恋人に語る言葉、自分が生まれてからずっと歩いて来た足跡がここまで続いていて、出撃の日にここで終わる…。
 二十歳前後の若者たちの何と切ない想いか。私はこのセリフを思い出すたびに涙を禁じ得ません。幸いにして私は50年以上も数多くの地に足跡を残してくることが出来ました。その感謝の念をこめて、全都道府県“踏破”を達成した和歌山を御紹介します。

 紀州といえば尾張、水戸と並んで徳川御三家の一つ。徳川八代将軍吉宗のゆかりの和歌山城は市街の中心地にありながら濠と石垣に囲まれて、当時を偲ばせる威容を誇っていました。徳川吉宗と言えば享保の改革で有名ですが、日本史の教科書によれば「享保の改革」(1716〜45年)とは、繁栄に浮かれた元禄時代から生じた財政難を立て直すために、文官による文治政治を廃して武芸を奨励、倹約令で質実剛健を目指し、相対済令(相対済まし令)で旗本・御家人らの借金踏み倒しを黙認したうえ、年貢の増徴なども行なったとあり、これって本当に江戸時代のこと?と平成時代との共通点の多さに、思わず歴史は繰り返すという名言を改めて感じた次第です。

 それはともかく日本の城の石垣は見事なものです。ここを白兵戦で攻め上がれと言われたら誰だって恐ろしいでしょう。日本にはあちこちに城跡があり、天守閣などは焼失したままだったり、後世に再建されたものだったりしますが、石垣だけは当時のままです。日本は地震や台風などの災害国ですが、そういう自然災害で崩れた石垣の話はほとんど聞きません。
 逆に新しい住宅地の裏山が崩れて犠牲者が出たなどというニュースは毎年のように報道されますが、住宅地を切り開く際に山や崖を抑える現代の技術は、何百年も昔の築城技術に及ばないのでしょうか。残念です。
 機械力の乏しかった時代に石垣を積み上げるのは大変だったでしょう。ここ和歌山城の石垣も河原から切り出してきたらしい巨大な堆積岩や石英質の岩石が一見無秩序に積み上げられていますが、これらは緻密な計算がなされていたために何百年も崩れずに城を支えてきたものと思われます。石垣の一部には、何か彫り物のある灯篭の礎石らしきものも組み込まれていて
、この石を選んで積んだ人々が何を喋りながら作業をしていたのか、考えているうちに思わず笑ってしまいました。

 ところで和歌山市は特急列車で大阪から1時間足らずの距離にあり、東京で言えば横浜や千葉の感覚ですが、和歌山市から南へ向かう列車に乗ると、ほとんど平地のない海岸線に沿って本州最南端の潮岬に到ります。車窓から眺める海岸線は時に穏やか、時に荒々しくて決して退屈しない風景でした。

 和歌山県をなぜ和歌山県というか。その理由も判ったような気がします。文字どおり
和歌の山なのですね。和歌といっても特に万葉集です。和歌山を出てすぐ南に広がるのが和歌の浦。
若の浦に潮満ち来れば 潟を無み葦辺をさして鶴鳴きわたる
という山部赤人の歌が詠まれたのがこの海辺だそうです。鶴は“たづ”と読むのですね。高校時代に古典の授業で習った時は退屈でしたが、実地を目の当たりにすると万葉歌人たちの心がじかに伝わってくるようです。

 また途中には「岩代」という駅名が読めましたが、これは昔の「磐代」ではないでしょうか。
磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む
年若き有馬皇子が皇位継承をめぐる謀反の疑いをかけられて、南紀の牟婁温泉で湯治中の斎明天皇のもとに護送される途中に詠んだ歌とされています。木の枝を結ぶのは幸運を祈るおまじないのような行為だったそうです。天皇の前で謀反の疑いが晴れて無事に再び都に帰れる日がくれば、またこの磐代(岩代)を通過するのです。その日を祈って願をかけたのでしょうが、皇子の願いも空しかったのでした。

               帰らなくっちゃ