靖国神社

 今回は東アジアの中で、ある意味で最もホットなスポットを訪ねてみましょう。21世紀初頭の現在、ギクシャクしている日中・日韓関係を象徴しているのが、ここ東京九段にある靖国神社です。
 明治2年(1869年)、明治維新時の戊辰戦役で死んだ官軍将兵の霊を祀るために招魂社として建立され、明治12年に靖国神社と改称、その後、第二次世界大戦までの多数の戦没者の霊が祀られていることは周知の事実です。

 ところがここにいわゆる“A級戦犯”と呼ばれる人たちが合祀されたことから問題がこじれました。“いわゆる”とカッコ付きで書いたのは、このA級戦犯を定めた極東軍事裁判の過程に問題があるからです。28名の“A級戦犯”のうち、東条英機
首相、土肥原賢二陸軍大将、松井石根陸軍大将、武藤章陸軍中将、木村兵太郎陸軍大将、板垣征四郎陸軍大将、広田弘毅外相の7名に対する絞首刑が言い渡され、約1ヶ月後に刑が執行されたのですが、この裁判は明らかに勝者による報復の意味合いしかありません。
 古今東西、戦争が終われば勝者が敗者に対して苛酷な要求(領土割譲、奴隷化、賠償金、等)を突きつけるのが世界共通の掟でしたが、この極東軍事裁判においては、「被告らの文明と人道に対する罪」といういかにももっともらしい理屈が付けられているだけタチが悪い。

 極東軍事裁判が単なる報復劇だったことを示す明確な証拠があります。この裁判では上記のA級戦犯の他にも、B級C級戦犯として多くの中級指揮官や下級兵士たちまでが、捕虜虐待や住民虐待などの戦争犯罪で絞首刑あるいは銃殺刑に処せられています。ではこの時、戦勝国側として日本軍の捕虜虐待を裁いたアメリカ軍やイギリス軍が、最近イラクで何をしたか。イラク人捕虜を虐待して耐え難いまでの屈辱を与えたばかりか、一部のイラク人は死に至った可能性すらあります。彼らはこういう自国兵士たちの“戦争犯罪”に対して死刑を求刑したのでしょうか。死刑が野蛮な刑罰であると言うのなら、代わりに無期懲役を求刑したのでしょうか。さらにアメリカのブッシュ大統領などは、イラクに大量破壊兵器があるという根拠のない憶測だけで戦争を始めましたが、これなどは“文明と人道に対する罪”で絞首刑が相応ではないでしょうか。

 検事・判事ともすべて戦勝国側というきわめて不公正で不道徳な法廷で裁かれた“A級戦犯”なる呼称には私も反対です。
 しかしそれでは戦後、日本人自身による戦争責任の追及は行なわれたのでしょうか。“A級戦犯”のうちの多くは、日中戦争から太平洋戦争の時点における行政の責任者であり、軍の実行責任者であったわけです。中国や朝鮮など近隣諸国に対して重大な損害を与えたばかりでなく、国内でもほとんどの日本国民が羊のごとく従順だったのを良いことに、戦争政策を遂行し、国民を戦火に追い立てた、その責任もあるはずです。
 戦後、日本人は自らの手でその戦争責任を追及することなく、極東軍事裁判の不公正を言い立てることによって、当時の行政責任、軍部の実行責任のすべてを免罪し、あろうことか、日本では人は死ねば誰でも神であるなどという理屈を付けて、その責任者たちを靖国神社に神として祀ってしまいました。ここに私は、「責任」というものに対する日本人のメンタリティーを見る思いがします。
「やってしまった事を後からとやかく責めても始まらないよ。だから俺がやったことがもし失敗しても、後であんまり責めてくれるなよ。」
これが日本人の「責任」に対するメンタリティーです。国の責任者にこんな気持ちで国政に当たられたら、国民はたまったものじゃありません。

 小泉首相の靖国参拝に対して、諸外国が非難すること自体にそれほど動じる必要はありません。しかし国民に損害と不利益をもたらした国家首脳の責任を曖昧にする態度、それを恥と思わない国民には必ず同じ災いが二度三度と降りかかってくるでしょう。
 小泉首相は何度目かの靖国参拝の後、「内閣総理大臣たる小泉純一郎が一国民として参拝した」と得意げに言い放ちましたが、いみじくも日本国民全体の欠点までを鋭く突いた名言というべきです。
「俺の政策が間違っていても国民は決して俺を責めないだろうよ。」
拝殿に参拝する小泉首相の後ろ姿は無言のうちにそう語っています。


 これは地下鉄九段下駅を出てすぐの靖国神社一の鳥居です
。ちょうど日本武道館のある北の丸公園とは道路を挟んで反対側に当たります。私の高校時代の志望校の一つは防衛大学校でした。海上自衛隊の護衛艦長が憧れでしたが、視力が悪くて諦めたのです。戦後生まれの私ですが、当時、「いずれ自分もここに祀られたい」という考え方にそれほど抵抗はありませんでした。


 これが拝殿
。戦前(と言っても日中戦争は始まっていた)の昭和14年に発売された「九段の母」という歌があります。(作詞:石松秋二、作曲:能代八郎、歌:塩まさる)

 
1)上野駅から九段まで 勝手知らない焦れったさ
   杖を頼りに一日がかり せがれ来たぞや逢いに来た
 2)空を衝くよな大鳥居 こんな立派な御社に
   神と祀られ勿体なさよ 母は泣けます嬉しさに
 3)両掌合わせて跪き 拝むはずみの御念仏
   ハッと気付いてうろたえました せがれ許せよ田舎者
 4)鳶が鷹の子生んだようで 今じゃ果報が身に余る
   金鵄勲章が見せたいばかり 逢いに来たぞや九段坂


 出征した息子が戦場で死ねば、家の誇り、郷土の誇り。家族でさえも表向きは喜ばなければなりませんでした。

 昭和16年1月、泥沼化する日中戦争の最中、当時陸軍大臣だった東条英機陸軍大将は、軍の綱紀を引き締めるために、軍人の行動規範となるべき「戦陣訓」を制定しました。

 
夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を發揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊嚴を感銘せしむる處なり。

に始まる“序”のほか、本訓其の一、其の二、其の三、そして

 
戦陣の将兵、須く此の趣旨を體し、愈奉公の至誠を擢んで克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答え奉るべし。

で終わる“結”よりなっています。全体として戦に臨む心構えが書き綴られていて、やや精神主義に流れる傾向が目立ちますが、軍人に対する教育書としてはそれほど偏向したものとは思えず、諸外国のものと比べて共通点も多いのではないでしょうか。問題の1ヶ所を除いて…。

本訓其の二 第八 名を惜しむ
 恥を知るものは強し。常に郷黨家門の面目を思ひ、愈
奮勵して其の期待に答ふべし。
 生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。


敵の捕虜になるくらいなら潔く死ね、ということです。古代スパルタの戦士たちも負けたら自殺せよと教えられていたそうですが、近代戦では時代錯誤の教えでした。
 この条項のためにどれだけ多くの軍人・軍属が助かる生命を自ら絶って靖国神社に祀られたか。インパール作戦では陸軍軍医もピストルで自決したと、小児科の毛利子来先生が書き残しています。自決したのはこの先生のお父様でした。またドイツ潜水艦に便乗していた海軍の技術士官2人も、洋上でドイツ降伏に遭遇し、捕虜として連合軍に引き渡されるよりはと艦内で自決しました。彼らは正規の軍人ではなく、東大出身の技術者でした。
 サイパン島や沖縄では、軍人・軍属ばかりか一般民間人も自ら生命を絶ちました。投降すれば味方の軍人から処刑されかねなかった状況もあります。民間人は靖国神社に祀られることさえありませんでした。
 戦陣訓のあの部分さえなければ、こういう人たちの多くは生命を失わずに済んだはずです。そもそも古代の白村江の敗戦から日露戦争に至るまで、日本には敵の捕虜になった兵士を恥と見なす習慣はありませんでした。個人的に名誉を重んじて自決した兵士は数多くいたでしょうが、国家として兵士に投降を禁じた異常事態は、東条英機陸軍大臣の時代が初めてです。
 不条理な自決を国家に強要された多くの軍人・軍属もまた、それを命じた責任者と共に靖国神社に祀られています。彼らの老いた母親は、杖を頼りにせがれに逢いに九段まで来たのでしょうか。

             帰らなくっちゃ