広島(Ground ZERO JAPAN)
日本人なら、まさかこの写真がどこだか判らない人はいないと思う。広島の原爆ドームである。1945年(昭和20年)8月6日、人類最初の核攻撃が加えられたのが、このドームの直上だった。
以来60年、ドームは核戦争の恐ろしさの証人として、同じ場所に同じ姿で保存されている。被爆直後、一面の焼け野原となった広島市に、このドームだけがポツンと取り残されたように建っていたという。「よほど頑丈な建物だったんでしょうね」と言う人がいるが、それは違う。真上から吹き降ろす爆風の衝撃を垂直に受け止めたこの建物の壁だけが、付近で唯一倒壊を免れたに過ぎない。2階と3階部分の床も天井も爆風で吹き落とされ、壁とドームの鉄骨だけがよく耐え得たのである。そして石と鉄だけが爆心の高温にも焼灼されることなく原型を保ち、戦後の今日までも原爆の恐ろしさを伝えているのだ。
広島、長崎への原爆攻撃に関しては、日米ともに現在でもさまざまな意見がある。アメリカでは概して、原爆攻撃は戦争の早期終結のために必要なことだったとする肯定的な見方が多いように思われるが、現在のアメリカの立場から見ればまったくの自己矛盾である。
2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロ以来、アメリカはテロリストに対して“戦争”を宣言し、事あるごとに次のようなメッセージを全世界に向けて発信してきた。
「目的のために無辜の一般市民を標的とした卑劣なテロ攻撃を我々は絶対に許さない。」
戦争早期終結のために一般市民を標的にした原爆攻撃は、現在のアメリカの価値判断基準からすれば、世界最大のテロ攻撃ということになる。一方で1945年の原爆攻撃を正当化しながら、他方でアフガン戦争やイラク戦争をも正当化する現在のアメリカ合衆国は、自己矛盾と欺瞞に満ちていると言わなければならない。
実は、アメリカは第二次世界大戦末期には、すでにソ連に対する戦争準備を立案していたと言われる。対ソ戦略の中で、核兵器は特に重要な案件だったであろう。兵器としての原爆にどれほどの威力があるのか、アメリカはその実験成果が欲しかったはずだ。
しかし原爆が実用化した時、すでにドイツは降伏していたし、日本の有力な陸海軍も壊滅していたから、適当な“実験台”は見当たらなかった。もし昭和20年初頭以前に原爆が完成していたら、戦艦大和や硫黄島守備隊などは絶好の攻撃目標に選定されていただろうし、アメリカの良心もそれほど痛まなかったであろう。
最初の原爆攻撃の“実験台”として残されたのは、それまで比較的空襲を受けていなかった日本の幾つかの都市だった。一説によれば広島と長崎の他、小倉と新潟だったという。また京都は日本文化通の某将官の意図で標的から外されたともいう。
広島への原爆攻撃に先立って、米軍のB29は巧妙なトリックを仕掛けたと若木重敏氏は書いている(光文社文庫「原爆機反転す」)。つまり広島市に一旦あらかじめ空襲警報を発令させたうえ、警報が解除されるように爆撃機が行動して市民が防空壕を出るタイミングを見計らいながら原爆を投下したというのだ。その証拠に、原爆搭載機(エノラゲイ号)とその僚機の当日の航路など、具体的な行動記録については現在に至るまで公表されていないという。これではモルモットと同じだ!
アメリカ政府(軍部)が、戦後初期の段階で初めて原爆の威力を一般に公開した時の印刷物を見たことがあるが(出典は忘れてしまった)、焼け野原となった広島市の写真に混じって、日本海軍の戦艦が大破した写真が掲載されていた。説明によると、『広島近海で撃破された日本戦艦』とあり、いかにも原爆は日本の軍事施設を狙ったように錯覚させるものであったが、もちろん戦史に詳しい人なら御存知のとおり、その写真は昭和20年7月の米軍艦載機による呉軍港空襲の際のものであり、原爆とは何ら関係がない。
こういうゴマカシをして自国民までを欺こうとした背景には、広島・長崎で一般市民を実験台にして原爆のデータを取ろうとしたアメリカの良心の疼きがあるのではないか。
原爆の火に焼かれた広島・長崎市民の犠牲はまったくの無駄死にだったのだろうか?私は、まさに広島・長崎の市民たちこそ、全人類に代わって核の火を浴びた尊い犠牲だったと思っている。もし日独の陸海空軍に対して最初の核攻撃が加えられた場合、原爆の兵器としての有効性のみがデータとして尊重され、現在のような核に対する抑止効果は生まれなかったのではなかろうか。
第二次大戦後、米ソが何回か核兵器を使用するかも知れない場面があった。朝鮮戦争ではマッカーサー元帥が共産軍に対する原爆攻撃を進言しているし、1962年のキューバ危機では実際に米ソが手持ちの核兵器を撃ち合ってもおかしくない状況までいった。
もし“核は有効な兵器”という認識の方が強かったなら、誰かが実際に核兵器の使用に踏み切ったかも知れない。しかし、戦後にアメリカの科学者や政治家や軍人が広島や長崎で調査した結論は、“有効な兵器”どころではなかった。“すべての人類に対する究極の暴虐”とも言うべきものだった。
この認識があったからこそ、戦後何回かの危機の中で、核兵器の使用が回避されたと思う。まさに広島・長崎の市民が身を以って全人類に示した教訓であった。現在繁栄を続ける広島市の一角に、不気味な違和感のある廃墟を廃墟のまま残した意義は、この教訓を後世に長く伝えることである。
軍人ばかりか一般市民までを終生苦しめる核兵器の恐ろしさについての認識が形成されていなかったならば、おそらく今日の人類は亡かったであろう。インドの古典「ラーマーヤナ」には、太古の時代に人類が一旦は文明の高みに達していながら核兵器を使用してしまったという記載があるという。また太古の地層から、核爆発の高熱によるガラス質の地面が出てくるともいう。こういう超古代文明の話はにわかには信じがたいとしても、現在の核保有国の愚かさを見れば、過去に人類が何度か文明を発達させたとしても、核エネルギーまで手に入れた時にどんな愚行に走るかは想像することが出来る。幸いにして“今回の人類文明”は最初の核危機を無事に乗り越えることができた。
しかしながら危機はこれで終わりではない。米ソに続き、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタンなど、次々と核保有国への仲間入りを果たし、北朝鮮ばかりか韓国までが核兵器保持への野心を持っていたし、最近では無国籍のテロリストですら簡易核兵器の製造は可能であるらしい。危機はますます増大している。
何万年か後の“次の人類”から、前の人類は核兵器で滅んだらしいなどと言われることのないよう、広島の原爆ドームはずっとこの場所で、さらに多くの事を語り続けていて欲しい。