明石町

 東京都中央区明石町です。築地に隣接する小さな町ですが、意外に由緒ある歴史を秘めた町です。神戸の隣に明石市というのがありますが、かつてその播磨明石の漁民が江戸に出てきてここに住みついたことから、この地名が付いたという説があります。

 江戸時代はまだ対岸の埋め立てが進んでおらず、江戸湾に臨む街並みだったといい、数々の大名や旗本の屋敷が並んでいたそうです。その中にはあの「赤穂浪士」で有名な浅野家の表屋敷もありました。

 明治時代は、不平等条約改正までの一時、外国人居留地にもなっていて、そのためか今でも何となく洒落た街並みのイメージが残っています。

 ところでこの写真の背景は、対岸の佃島とを結ぶ佃大橋で、明石町の北東端に当たります。今では川沿いの綺麗な公園地帯として整備されていますが、かつてはちょうどこの位置に都立築地産院がありました。我が国の未熟児・新生児医療の草分けの地と言っても良いでしょう。

 私も医師になりたての昭和53年から55年まで、朝に晩にこの角度からこの橋を眺めながら、新生児医療と産科医療の研鑽を積んでいました。当時は未熟児・新生児医療が全国に根付き始めた時期で、各地に新設されるNICU(新生児集中治療施設)の責任者や担当者がたくさん見学に訪れたものです。

 テニスコートが2面取れるかどうかの狭い敷地の中の5階建ての小さな建物でしたが、我が国の新生児医療の分野での存在感は他を圧していました。今では明石町一帯を占拠したかのごとき威容を誇る聖路加病院の小児科の先生方も、かつては築地産院に教えを乞いに見えたものでしたし、地方のある施設から見学にいらしたNICUの先生が、「我々が築地(産院)に追いつくには10年かかる」と溜息混じりにおっしゃっていた言葉が今でも思い出されます。

 その由緒ある都立築地産院も1999年に都立病院統廃合で廃止されました。同じ年に都立荒川産院も廃止され、3年後には世田谷の都立母子保健院も廃止されて、東京都内の妊婦たらい回しも深刻な問題になっているようですが、果たしてこんな都市がオリンピック開催都市として名乗りを上げる資格があるのか、私は疑問に思いますね。

 政財界の意向を受けてオリンピック招致に使う莫大な資金源はあっても、都民の健康を守る医療に投資する金は出し渋る、そんなバカな話がどこにありますか。
 まあ、石原都知事は特攻隊を讃美する映画の制作に関わった人物ですから、住民の生命は虫けら同然と思っているのでしょう。そういう人を長年にわたって支持してきた東京都の有権者の意識が問われるわけですが…。

 真夏のある暑い日、明石町の街角をあるいていたら、聖路加看護大学の近くの舗道の柵に埋め込まれていたジュラルミンのプレートが目に止まりました。そこには何と、佃大橋のたもとのトイレ表示の脇に「都立築地産院」の地名が…!

 もしかしたら1999年以前に作られたプレートかも知れませんが、まだ築地産院があった当時はこんなトイレがあったような記憶はありませんし、誰が「築地産院」の表示をこのプレートに刻んだのか?築地産院で勉強した医療関係者か、あるいは都立病院統廃合政策に反感を持つ人か、明石町の町並みに一つの謎ができました。いずれにしても、築地産院廃院後もまだプレートにその名前が残っているのは嬉しいことです。

 それはともかく、人の世は移り変わっても隅田川の流れは私が築地産院で研鑽していた頃のままです。水の流れを見つめていると、当時のことがいろいろ思い出されて感無量でした。
 ところで上の写真で私が着ている青いシャツ、私が築地産院に勤務している頃に買ったものです。四半世紀以上前のシャツをいまだに着ることが出来る、私の体型も変わりません。ちょっとした自慢です。

          帰らなくっちゃ