ベルツ胸像:東京大学構内
これは本郷の東京大学構内、医学図書館裏手にある胸像で、向かって左がベルツ先生(Erwin
Baelz)、右がスクリバ先生(Julius Scriba)、真ん中はどこの馬の骨か?私が平成4年に現在の職場に転勤することが決まり、東京大学の構内で最後の記念にと撮影した1葉です。
ベルツ先生は明治9年(1876年)から26年間、スクリバ先生は明治14年(1881年)から20年間の長期にわたって日本に滞在し、東京大学医学部の前身であった東京医学校でそれぞれ内科学と外科学の教鞭をとられたドイツ人医師です。お二人とも日本と日本人を心から愛し、日本婦人と家庭を築いて、まるで自国の学生に接するように“異郷”の学生たちに医学を教えた、いわば我が国の近代医学の恩人であるわけです。
ベルツ先生に関しては幾つかの書籍が残されていますが、ハナ婦人(花のように美しいのでハナと呼んでいたらしい)との間に生まれた長男のトク(徳之助)が編纂した『ベルツの日記』という本があります。明治初期の日本に暮らした外国人の目で当時の日本の様子を記載した実に興味深い本で、医師として日本の衛生事情や医学事情、日本人の疾病に対する態度などを書き記した部分も面白いのですが、西南戦争や憲法発布や大津事件などのさまざまな政治的大事件に関する所見も圧巻です。ただし日記を翻訳して出版するにあたり、日本の当局から皇室・軍部・朝鮮問題に関する率直な意見を削除させられるなどの圧力も加わって、史実としては必ずしも完全なものではないようですが…。
また明治10年(1877年)に東京医学校と開成学校(法・文・理)が合併して東京大学(東京帝国大学の前身)になる際に、医学校のドイツ人教師も、外国語として英語を重視した開成学校のイギリス人教師も、新しい大学がドイツ流になるのかイギリス流になるのか不安で、互いに牽制しあっていた様子を窺わせる記載もありました。
ところで私が『ベルツの日記』を読んで一番面白いと思うのは、明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布の前後の記事です。この年号は「憲法発布イチハヤク」と覚えましたが、“いち早く”どころか、フランス革命で人権思想が根付いた時からすでにちょうど100年が経っていました。しかもその人権思想はフランス革命のものから二歩も三歩も後退していたのです。
1月29日
政談演説に関する訓令−政府は訓令を発して、政治その他に関する公開演説を行うことを、すべての官吏に許可した。恐らく政府は、憲法や選挙について国民を啓発することにより自己に有利であると期待しているようだ。しかし、自分が日本人を知る限りでは、これはすこぶる危険であると思う。この国民は政党運動、それも盲目的な政党運動におあつらえ向きである。ところで、現今の官吏なるもの自体が多くは、まだじゅうぶん消化されていない西洋思想の持ち主であるから、啓発するのではなく、むしろ惑乱させるだろう。
ベルツは日本国民の貧弱な政治的資質をすでに見抜いていたとしか思えません。日本国民は自分の意見を表明せず、ちょっと見栄えの良い指導者が旗を振れば集団となって右往左往する、しかもその指導者たるものからして西欧の人権思想などちっとも理解していないと言っているのです。
はたしてベルツが平成日本にやって来たとしたら、もっと別の感想を述べたでしょうか?平成の日本国民もまた、2005年の総選挙で小泉純一郎を盲目的に支持したあげく、その男の施策が今になって後期高齢者医療制度になって跳ね返ってくれば、自分が選んだ政府の政策であるにもかかわらず、一方的な被圧政者ヅラをして恨み言を並べるばかり。しかし仮にもう一度小泉純一郎が政界の表舞台に登場すれば、たぶんまたコロリと盲目的に騙されるに決まっています。
もっともドイツ人も、その後ナチスの台頭を許したわけですから、ベルツ先生も地下で大きな顔をされてはいないと思いますが…。
2月9日
東京全市は、11日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。いたるところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが滑稽なことには、誰も憲法の内容をご存知ないのだ。
けっこう有名な一節ですが、最近の憲法改正論議もこの延長線上でしょう。そしていよいよ2月11日の憲法発布の式典の様子が記載されています。天皇の前に大臣、高官、貴族らが並び、天皇が黒田清隆首相に憲法の原本を手渡す様子など、式典の様子が細かく記されていますが、ベルツはそれと同じくらいの比重で、市内の祝賀パレードで見かけた女性たち、山車に乗った娘たちや練り歩く芸者たちについて書いています。
東京で今日ほどたくさん美しい娘を見たことがない。このみずみずしさ、このすこやかさ、このあでやかな着物、この優しい、しとやかな物腰。
まあ、ベルツ先生も男性ですね。午後の観兵式を見学させられていた10歳前後の少女たちのことも書いています。大多数の少女たちが素足か薄いソックスだけで雪解けの中に数時間も立っていなければいけなかったのに、みな楽しげで疲れも知らないようだと感嘆しています。ヨーロッパの少女たちならば全員病気になっていただろうと言っていますが、貧しかった時代の日本人の体質の強靭さについて、ベルツは他の所でも書き残しています。
さて再び憲法発布の件に戻って…、
2月16日
日本憲法が発表された。もともと国民に委ねられた自由なるものは、ほんの僅かである。しかしながら、不思議なことに、以前は『奴隷化された』ドイツの国民以上の自由を与えようとしないといって悲憤慷慨していたあの新聞が、すべて満足の意を表しているのだ。
マスコミの頼りなさも明治時代以来です。筋金入りの頼りなさ…(何だ、こりゃ?)。しかし国民全体にも責任があるのです。実は憲法発布の日の朝、時の文相森有礼が暗殺されますが、この件についてもベルツは何日かにわたって記載しています。
『ベルツの日記』によれば、森文相は1年前に伊勢神宮に参拝した際、最も神聖な場所に靴のまま立ち入ろうとし、しかも皇族しか触れてはならない御簾をステッキで持ち上げたということで反感を抱かれたということです。犯人は森文相に近づいて持っていた出刃包丁で腹部を刺し、駆けつけた警官によって犯人もまた頭蓋を割られますが(さすが医者だけあって記載は正確か)、不可解なことに医師が呼ばれたのは3時間以上も後だったらしい。
3月19日
憲法で出版の自由を可及的に広く約束した後に、政府はすぐ翌月、5種を下らぬ帝都の新聞紙に一時発行停止を命ずるの余儀なきありさまに立ち至っている。それは、これらの新聞紙が森文相の暗殺者そのものを讃美したからである。それどころか、ある詩(紙?)では、犯人の予定した第二の犠牲者芳川氏がまだ生存しているのを遺憾とするという意味が述べてあった!上野にある犯人の墓では、霊場参りさながらの光景が現出している!特に学生、俳優、芸者が多い。よくない現象だ。要するに、この国はまだ議会制度の時機に達していないことを示している。国民自身が法律を制定すべきこの時に当たり、かれらは暗殺者を讃美するのだ−森氏の行為に対して、いかなる立場をとろうとも、それは勝手であるが。
感情に流されやすい我が国民性。森文相は国民受けがあまり良くなかったらしいですが、だからと言って暗殺者を讃美するとは言語道断です。しかもインテリの代表である学生までが犯人の墓参りに狂奔したとは…。この点に関しては日本人も少しは成熟したようですし、ケネディ大統領暗殺、キング牧師暗殺と暴力が続いた銃社会アメリカ合衆国よりは日本の方がはるかにマシな国ですが、それに満足することなく、平成日本人ももう一度明治時代のベルツの言葉に耳を傾けることも必要かと思った次第です。