知覧

ああ、この人のホームページだから、知覧と言えば特攻平和会館か、航空基地跡の写真でも載せているんだろうと思って、このページへおいで下さった皆様が多いと思いますが、違うんですね。これは知覧が「薩摩の小京都」とも呼ばれるゆえんの武家屋敷の通りです。

解説によれば、第18代知覧領主島津久峰公の時代(18世紀中頃)に整備された武家屋敷群です。薩摩藩の本丸の城は鶴丸城で、その他に領内の防衛拠点として113ヶ所の外城がありましたが知覧はその一つで、領内の武士たちは城下にこのような屋敷を構えていたそうです。緑の生い茂る垣根が見事ですね。これらの垣の内側にはこれまた美しい庭園が築かれているんですが、これらの屋敷は現在でも子孫の方々が住居として利用されているので、写真の掲載は遠慮しました。(もちろんこの地を直接訪問すれば、多くの庭園が公開されています。)この写真は屋敷群に面した道路です。先で行き止まりになっているように見えますが、実はあそこで道が一旦段違いのように曲がりくねって、再び先へ伸びているのです。これも敵に攻め込まれた時の防御のためでしょう。

庭園も実に繊細で美しく、京都や鎌倉の庭園と比べても遜色がないように思いました。尚武の地、薩摩の武士たちにこんな優雅な感性があったというのは新鮮な驚きです。ただ京都や鎌倉の庭園のように侘びとか寂びとか、あるいは幽玄とか無窮といった哲学は感じられない。それは何故かと言うに、これらの庭園は枯れていないのです。南九州という土地柄もあって南方系の植物が生い茂り、背景の山々も青々としていて、まさに生命の躍動を感じさせるからだと思います。京都や鎌倉など北部の日本庭園のように枯れた幽玄の世界ではなく、生き生きとした生命の躍動の世界を表わしている、それが私の印象でした。悟りを開いた僧侶や有力な商人や権力者たちが作った庭園と、明日をも知らずと覚悟の日々を送っていた辺境の地の武士たちの作った庭園の比較、それは私のような素人の筆で書くよりも、興味のある方はぜひ一度知覧の地を訪れることをお勧めします。

ところで知覧にはこのような素晴らしい史跡があるというのに、少し前までは一般にはまったく知られていませんでした。知覧が全国に知られるようになったのは、御存知のように特攻隊の基地が書籍やドラマや映画で取り上げられるようになってからです。昭和47年に改訂版が出た山と渓谷社のアルパインガイドシリーズ14「九州の旅」には知覧のことは一行も記載されておりません。対照的に大隈半島の鹿屋市については以下の記載があります。

桜島火山の降灰によるシラス台地を開拓した畑作農業のサツマイモ、雑穀、畜産などが主産物で、また戦時中まで海軍航空基地として重要視されていた。ことに昭和20年春からの沖縄米軍に対する特攻攻撃はここが中心基地であった。(山と渓谷社、上記ガイドブックより)

しかし面白いことにガイドブックも著者の興味や出身地域によって内容も異なるのか、同じく昭和47年版の実業之日本社のBLUE GUIDEBOOKS 145「南九州の旅」では、知覧町が次のようにやや詳しく紹介されていました。

知覧町もお茶の町として昔から知られている。ここには鹿児島県立の茶業試験所があり、枕崎と同様に緑茶や紅茶の品種改良につとめている。
知覧峠一帯の茶園は見ごたえがある。なお鹿児島県の紅茶生産量は全国の8割を占め、生産額は二億六〇〇〇万円にも達している。
(註:昭和47年前後の数字)
特攻基地知覧と特攻観音
知覧町には茶園のほか、太平洋戦争当時の特攻基地跡が県道ぞいにある。予備学生や少年飛行兵たちが、再び帰らぬことを知りながら、ここから飛び立っていった。
いまは一部のざん壕を残し畑作地帯に変わったが、一隅に特攻平和観音堂が建てられ、サイパン、レイテ、沖縄に散った若き命が一0一二柱眠っている。
これらの特攻兵の母がわりとして面倒をみた富屋食堂女主人・鳥浜とめさんは同町麓川に健在。いまも日曜ごとにお参りして霊をなぐさめている。
(註:鳥浜とめさんは平成4年4月22日に亡くなった。)
また知覧町には美しい郷土屋敷が残っており、薩摩隼人の生活をしのばせてくれる。


ちなみにこちらのガイドブックの鹿屋基地については、解説文の中に「海上自衛隊鹿屋基地の前には、特攻隊の碑が建っている」と一行短く触れてあるだけでした。それはともかく昭和47年版BLUE GUIDEの方は知覧の特攻基地については現在と同じように詳しく記載されているが、武家屋敷群についての記載はお世辞にも正確とは言いがたいです。文章のバランスから考えて、どうも自分で現地を訪れたわけではなさそうです。
このように当時の知覧は、太平洋戦争の戦史としても、南九州の観光地としても、不十分な紹介しかされていなかったのです。生き生きとした庭園を楽しんでいた薩摩武士の土地から若者たちが死の出撃をした因縁に、深い感慨を禁じ得ませんが、「知覧と言えば特攻隊」というだけの最近の流行だけでなく、もっと知覧町全体の良さを全国の人々に知って欲しいと思います。この地に最後の足跡を残した若者たちもきっとそう願っているでしょう。
               帰らなくっちゃ