明治神宮球場


 ここは明治神宮球場、言わずと知れたプロ野球セントラル・リーグのヤクルト・スワローズの本拠地です。知り合いの学生さんたちがアルバイトしているとか聞いたんで、ちょっと来てみました。残念ながら(?)上の写真のスワローズ応援ギャルたちではありません。

 プロ野球のナイター(ナイト・ゲーム)を生で観戦するのは何年ぶりでしょうか。確か後楽園の東京ドームで、巨人の松井秀喜選手(現・NYヤンキース)が初めて一軍のスタメンに登場したゲーム以来ですから、15年ぶりということです。
 プロ野球もずいぶん変わりました。巨大なバックスクリーンの画面には、主催者側チーム(神宮球場ではヤクルト・スワローズ)の選手が動画でアピールされ、場内スピーカーからもエキサイティングにコールされます。打者がヒットを打ったり、投手が三振を奪ったりすれば、もう大騒ぎ…!ただし相手側チームの選手には何もなし。
 またラッキーセブンの攻撃の時には、上の写真のようなお姉サンたちが出てきて、相手チーム側(三塁側)の観客席にお尻を向けて踊ったりします。要するにショーの要素が強くなったんですね。私が子供の頃(昭和30〜40年代)の球場は、ただ選手たちが野球をやっているだけで(当たり前なんですけど)、大きなスクリーンもありませんから、観客席からは豆粒のようにしか見えない。だから観客はそれぞれトランジスタ・ラジオ(この名前も今は懐かしい)を球場に持ち込んで、目の前でやってる試合の実況中継を聞きながら観戦したものです。
 何だかバカみたいとか言われるかも知れませんが、私は実は今回もっとバカな光景を目にしてしまいました。お父さんと一緒に試合を観戦しに来た小学生くらいの男の子が、本物の試合を見ずに、ゲーム機で一生懸命プロ野球ゲームをやっているのです。あれって何なの…?

 ところで私が神宮球場に来たのはもう32年ぶりですが、神宮球場には私にとってプロ野球以外の思い出がたくさんあります。最後に来たのは東京六大学のリーグ戦でした。東京大学というと、東京六大学リーグのお荷物みたいな観がありますが、私が在学した昭和40年代後半は少しだけ強かった時期に当たり、私も一度だけ東大が勝った試合を観たことがあります。
 最後に観た六大学リーグの試合は法政・東大戦で、あの江川卓投手の初登板でした。高校時代は作新学院の悲運のエースと呼ばれ、プロ野球のドラフト会議で希望の球団(巨人)のクジ運が悪くて指名されなかったため東京六大学へ進学(慶応は落ちたとか騒ぎになった)、大学卒業時のドラフト会議も希望球団(巨人)でなかったため1年間渡米、翌年のドラフト会議でかなりきわどい奇策を使って巨人に入団しましたが、セントラル・リーグ事務局からイチャモンがついて失敗、その翌年の1979年、当時巨人に在籍した小林繁投手の阪神トレードと交換の形でやっと念願の巨人入団を果たしましたが、肩の故障で10年もたず、1987年に引退して、現在はスポーツ解説者として活躍しています。
 別に江川投手の経歴はどうでもいいのですが、その当時の神宮球場外野席は現在のような椅子席でなく、一面の芝生でした。芝生に寝転びながら見たマウンド上の江川選手は、他の選手より一回りも二回りも背が高く、その長身で投げ下ろす速球の威力が外野スタンドまで伝わってきたのをよく覚えています。

 もう一つの思い出は、それよりさらに8年前の高校時代、高校野球の東京都予選大会でこの神宮第一球場で応援団を務めたことでした。上の写真のお姉サンたちが踊っている場所から少し右手のあたりのスタンドにブラスバンドが陣取って応援したのです。
 私の高校には応援部が無く、私が高校2年生の時に野球部の友人から頼まれて、ここ神宮球場まで楽器を持ち込んで応援しました。当時はまだ東京都大会は東西に分かれておらず、東から西まで強豪ひしめく激戦区でしたが、私の高校もかなり善戦していて、その年は第7シードを獲得していました。
 昭和43年7月25日の神宮第一球場(ここです)の第二試合、我が武蔵高校は中大杉並高校と対戦してみごとに逆転勝ちしました。翌日の毎日新聞の都予選大会の記事の切抜きがあります。

中大杉並・武蔵は、武蔵のあざやかな逆転勝ち。三回、中大杉並は四球で出塁した鈴木が高山の右前安打で生還、あるいは五嶋の力投で逃げ切るかと思われた。しかし武蔵は林、原田の連安打でチャンスをつかみ、山田のバントも内野安打となって無死満塁。ここで波多野が左中間に三塁打を飛ばして3点、さらに波多野も岩井の右犠飛でかえって4−1と一気に逆転した。中大杉並は最終回二死から後藤の二塁打が出たが、阿部三振で力尽きた。

 高校野球の地区予選なのに、けっこう熱の入った記事を書いてくれてます。中大杉並高校のOBの皆様、ごめんなさい。数年前、西東京大会で同じ組み合わせがありましたが、その時は武蔵が負けています。私たちが高校生だった頃は予選大会の全試合にわたって、このような記事を書いてくれていましたが、最近は冷淡ですね。

 さてその2日後、今度は隣の神宮第二球場で武蔵は降雨の中、日大一高と対戦します。確かその年の甲子園代表だったと思います。やはり毎日新聞は『武蔵は日大一に健闘』と見出しまでつけて、次のような記事を書いてくれてました。

日大一・武蔵はシーソーゲームの末最終回日大一がとどめを刺した。日大一が一回小林・千葉の安打で先行すると、武蔵は二回四球で出塁の林が投手のけん制悪投で二進後、三盗、本盗とやってのけ足で同点にこぎつけた。さらに三回には中村の四球と泉、林の連安打で2−1と逆転に成功。しかし日大一は四回林四球、渡辺遊撃失で塁に出、小山の左中間二塁打で再び1点をリードし、最終回になって3四球と2安打でダメ押し点をあげ、ねばる武蔵を突き放した。日大一小山投手は四回以降1安打に押える好投だった。

 この時は我々応援団にもお相伴の記事が…。

奮闘の即席応援団
 グラウンドの選手たちがドロまみれなら、応援団もびしょぬれ。なかでも日大一と対戦した武蔵高には正式な応援団がなく、ブラスバンド部の部員たちが校内のクラス対抗用の赤や紫の旗をかつぎ出しての“インスタント応援団”だが、雨が降り出しても高々と旗をかかげ最後まで「フレー、フレー」。立派にエールの交換もやってのけた。


 この即席応援団の団長が私でした。中大杉並戦の時も炎天下で黒の詰め襟の学生服を着て、白い鉢巻を巻いて応援したものです。よく熱中症にならなかったもので、今考えるとゾッとします。

             帰らなくっちゃ