観音崎

 観音崎は東京湾の入り口の西側を扼する三浦半島から、さらに内側に食い込む爪のように海上に突き出した場所で、対岸の房総半島の君津や富津との間の浦賀水道をさらに狭いものにしています。対岸の千葉県まで最も狭い所で幅6.5qしかない浦賀水道を1日に700隻以上の大小船舶が通行すると言われ、海難事故の多発しやすい海の難所です。

 東京、神奈川、千葉の港湾に入る船は必ずここを通過しなければならず、東京湾に入る北行きの船は水道の東側を、東京湾から出る南行きの船は西側を、それぞれ1列になって並んで進んで行く光景は確かに壮観ですが、ちょっと考えれば事故と隣り合わせの危険な区間ですね。
 自動車の運転も直進だけしていれば事故は起こらない、事故を起こすのは大体、車線変更か右折左折の瞬間です。浦賀水道に入って来た艦船の行き先は1ヶ所ではありません。真っ直ぐ湾内に進んで東京港に入る船ばかりなら事故も起こりにくいはずですが、左折して横浜や横須賀に入るものもあれば、右折して木更津や千葉に入るものもある。
 私が最も印象に残っている海難事故は、1988年(昭和63年)に起こった事故で、横須賀に帰港する海上自衛隊の潜水艦が左折して南行き航路を横切る際に釣り船と衝突、釣り船は沈没して30名もの釣り客の方々が亡くなった痛ましい出来事でした。もう四半世紀近く経ったのですね、今でもニュースを聞いた時の衝撃を鮮やかに思い出します。

 ところで東京湾に入る艦船はすべて浦賀水道を通ることから、戦略上の要地として軍事上の理由から、戦前の観音崎は一般人の立ち入りは厳しく制限されていたようです。現在でこそ付近は公園として整備されていて、私のような者でも咎められることなく遊ぶことができますが、かつての海上の監視所や砲台の跡は今でも観音崎一帯に残っています。
 つまり観音崎は敵の軍艦が東京湾に侵入してくるのを防ぐための絶好の防塁だったわけですね。第二次世界大戦以後の航空戦の時代から見ると何となく古くさい気もしますが、実際に日露戦争では旅順港に逼塞して陸上砲台に守られたロシア艦隊に対して、日本の連合艦隊はまったくと言ってよいほど手を出せませんでした。
 では日露戦争後に発達した潜水艦が海面下に姿を隠して侵入したらどうなるか。これは第二次世界大戦の初頭、ドイツの潜水艦(Uボート)がイギリス艦隊の根拠地であるスカパフローに侵入して戦艦を撃沈しています。上の写真の海上要塞のような不思議な形の遺跡(?)は、浦賀水道に侵入した潜水艦を探知するために昭和12年に設置された水中聴音所の跡だそうです。

 さて観音崎付近の地名を走水(はしりみず)と言いますが、これはその昔、東国遠征に出た日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がここから対岸の上総に渡る時に、この海を「水走る」と詠んだことから地名が起こったと言い伝えられています。また暴風雨で船出できなかったので、日本武尊の后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が自ら入水して嵐を鎮めたという悲しい伝説もあります。
 日本武尊は東国遠征の最後に、碓氷峠あたりで自らを犠牲にして進路を開いてくれた后を偲んで「吾妻はや(吾が妻よ)」と嘆いたので、以後は東国のことを“あづま(吾妻)”と呼ぶようになったそうですが、そんな愛妻家の日本武尊が妻を海神の生贄に捧げてまでこの海を渡らずとも、対岸の上総(千葉県)へは東京湾の北岸、現在の東京あたりを迂回して行けば良いように思います。

 しかし大和朝廷の時代の東海道は、駿河(静岡県)から鎌倉を経て観音崎に至り、そこから海路で上総に伸びていたようで、これはちょっと不思議なことです。現在の東京あたりは、徳川家康が江戸幕府を開くに先立ってかなり開墾の手を加えなければならなかったようで、あまり良い土地ではなかったのでしょうが、それにしてももっと山の手の方を迂回することは出来なかったのでしょうか。やはり北方系の非友好的な蝦夷との勢力分布の関係かも知れません。大和朝廷も東国を支配下に収めかけていたとはいえ、それは海上輸送の支援を受けられる海岸線付近に限定されていたと考えられます。
 昔の東国の防人たちは上の写真のような景色を眺めながら上総の任地へ渡ったのしょう。ずいぶんと心細く、故郷へ後ろ髪を引かれる想いだったに違いありません。

          帰らなくっちゃ