湖南進軍譜−アメーバ赤痢と寄生虫の件−
アメーバ赤痢は経口感染の伝染病だ。本来なら防疫対策の立てやすい疾患である。それがなぜ軍の命取りになりほどの大事に立ち至ったのか。それは軍に排泄物処理の対策がほとんど皆無に近かったためだ。作戦要務令の行軍および宿営の項を読んでも、この件についての注意は何一つない。早い話が陸軍は尻を拭うのを忘れたのだ。
アメーバ赤痢患者の便は得体の掴めぬ一面がある。急性期患者の便は凄い粘液血便(卵の白身に血液を混ぜた感じ)で、この粘液の中に多数の元気なアメーバがいる。顕微鏡さえあれば野戦場でもすぐ証明できる。この新鮮なアメーバは人間の腸管から排泄されるとすぐ死んでしまう。また逆に患者の病状が小康を得て粘液が少なくなると、アメーバ殿は居心地が悪くなって「嚢子」という言わば着物を着た姿に変身し、粘血を含まない一見健康そうな便と共に排泄される。嚢子は着物を着ているので排泄されてもすぐ死ぬことはない。要するに見掛け上は健康な大便の方が却って危ないというわけである。こうしてこのアメーバ赤痢の感染源となった便があたり一面に垂れ流されたのである。
垂れ流された糞便からいかにして次の人間に運ばれるか。そこにはもう夥しい数の蝿の群れが待機していたのである。私は昆虫学の素養が無いので蝿の種類までは分からないが、日本で見かける蝿よりは大型である。繁殖力が旺盛なうえに季節も夏とあって、その数の物凄さ。試しに地面に飯粒など落とそうものなら、アッと言う間に見えなくなってしまう。一粒の飯粒にも10数匹の蝿が頭を飯粒の方に向けて集まり、奪い合うようにしてむしゃぶりついているのである。飯粒を中心にして蝿の花びらが開いて、まるで花のようになる。飯粒が一塊りとなると、まるで大輪の菊よろしくといった格好だが、色の薄汚いのは戴けない。飯粒の代わりに大便があると、この蝿どもがワッと集まってきてたちまち便全体が蝿に覆われてしまう。この蝿の大群が食物と糞便の間を往復してくれるのだから防疫もへちまもあったものではない。
兵員の列車輸送のところでも述べたが、中国の家には便所がない(再度断わるが60年前の話)。中国人はどこで用を足しているのか見物したことはないが、日本の将兵は家に便所が無ければ野外で即野糞と相場は決まっている。京漢作戦の時は天気も良く、青々と伸びた麦畑にしゃがめば、広い平原を見ながら爽やかに用が足せたのである。しかし湘桂作戦では6月は雨期(日本の梅雨期に一致している)に入ったせいもあって、野糞は少しも爽やかではなくなった。誰も濡れるのは嫌だから軒下で用を足す。軒下のスペースには限りがあるから早い者勝ち。遅くなった者は雨の中で我慢しなければならぬ。翌日行軍出発となると糞だらけの場所に整列しなけりゃならぬ。汚いの汚くないの。
それでもこの方がまだ良かった。雨期にはまだ蝿がそれほど活動しなかったからだ。一晩の宿営でもこのような始末、醴陵では当分駐留することになったからもう大変。悪いことに蝿発生の全盛期に重なった。朝になると用便のため清潔な場所を探しに行くのである。宿舎に近い所はすでに先人たちがしこたま穢したあとなので、そんな所で用を足す気にならない。由来動物は排便して回って自分のテリトリーを主張するらしいが、人間もこのような環境になると野生が甦るらしい。他人の糞便は無性に汚く感ずるのだ。やっと他人の糞が見えなくなった。やれやれ、ここで自分のテリトリーを主張する。
10日、15日と経つにしたがって今や半径100メートル以内に清浄な土地は無くなった。さすがに部隊長も業を煮やし、幹部を集めて厳命した。
「衛生部隊ともあろうものがこの有り様はなっていない。各部においてしっかり便所を作って排泄物を管理せよ。」
実にもっともで、むしろ命令が遅すぎたくらいのものである。ところで便所はいかに作れば汚染防止が出来るか、等の内容については誰も腹案があったわけではなかった。
夕刻、下士官が便所が出来たと報告に来た。ちょうど用事を催していたので早速出かける。家屋から20メートルほど離れた位置に、なるほど便所大の囲いが出来ている。囲いの材料は2メートルほどの篠竹を一列に並べて簾状に編んである。器用な細工がしてあるが、簾と同じに外から透けて見えるし、天井はなく雨の日には使えないなと思いながら戸を開けると、もうすでに何人も用を足していて、蝿の一部が便から舞い上がった。和式便所と同じような形に1メートルほども深く掘り下げてある。金隠しが無いから前後の区別も無い。中を覗くと先人の落し物の上はすでに真っ黒に蝿に覆われ、止まり場所のない蝿どもが周辺をブンブン飛んでいる。用を足す気に到底なれるものではないが、隊長の命令もあることだし、蝿を刺激しないようにそーっと構える。発射。すると糞に止まっていた何千、何万(少し大袈裟かな)という蝿どもが一斉に飛び立ったからたまらない。「ウォーッ」という羽音の凄まじさ。蝿どもが目や口に当たらぬよう両手で顔を隠し、這々の態で便所の外へ逃れ出た。
翌日便所はきれいに無くなっていた。また元の野糞に戻ったのである。以上の通り、治療薬は無い、消毒薬は無い、殺虫剤は無い、補給は無い、の無い無い尽くしで処置も無し、で済ませたのは申し訳ない。
次に問題の多かった慢性マラリア、慢性赤痢も最終的にはいわゆる栄養失調症(この病名についてはすでに述べた)的になってきて、初めはビタミン特にB1の不足として症状が出てきた。これが何とかならないか。醴陵では完全に敵の重囲に陥っていたので、薬も無いものねだりだけをしていても始まらない。
当時食料も完全に補給を断たれていたが、幸いなことに街の周辺の田圃の稲が実り始めていた。この近辺は二期作なので、第一回の取入れがこの時期(8月)には出来るのである。兵の中には農家出身者が多かったので、弾丸の飛んで来ない時刻を見計らって、稲刈り、脱穀とお手のものでたちまち玄米を作り出してしまう。下痢患者も多かったので、さらに玄米を水筒に入れて棒で突くと白米になるのである。この時に糠が出る。この糠に目を付けた。学生時代に製薬会社を見学したら、糠からビタミンBを抽出していたのを思い出したのである。戦地ではビタミンBの抽出など出来ないが、糠をそのまま飲ませれば胃腸がB1を抽出してくれるはずだと思ったのである。早速実行に移したが、残念ながら医学的効果を確かめる手段も余裕も無かった。
またもう一つかなり効果があったと思われた生薬に石榴皮があった。当時は日本でもそうだったが、中国でも農業の肥料として下肥を使っていた。下肥とは糞尿を肥溜めで腐らせてから畑に撒くのである。(古い日本人なら皆知っている。)したがって回虫卵は下肥を使った農作物を通じて伝播するわけである。あちらの食品のお世話になっていた日本兵に回虫症が多発したのは不思議でもない。
回虫症の特効薬はサントニンであったが、ソ連圏からの輸入品とあって貴重品だったので、これもすぐに底を突いた。回虫も2〜3匹寄生した程度なら問題ないが、数多く寄生すると腹痛や、ひどい時には腸閉塞を起こすことがある。
回虫は不思議に狭い所に頭を突っ込む性質があるらしい。回虫の数が増えるとお互いに絡み合い、絡んだ隙間に頭を突っ込んでついに球状になって解けなくなる。ある時、回虫症で腸閉塞様の腹痛を訴える兵がいた。そこで石榴の木を探して樹皮を少し剥がして来るように衛生兵に指示した。運良く石榴が見つかり、大量の樹皮を持って来た。「ずいぶんあったな」「ハイ、木を一本ぶっ倒したらこれだけ採れました。」早速これを煎じて飲ませたところ、出た出た、うどんの玉が出た。おまけに頭だか尻尾だか分からないが、先端がうどんの玉から出ている。そのうどん玉から鎌首もたげてユラユラ先端が動いている。見るに耐えない不愉快な姿だ。1人の衛生兵が叫んだ。
「俺は一生うどんを食わない。」
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