栗橋:静御前の墓
ここは埼玉県久喜市の栗橋駅。れっきとした東北本線の駅で、現在は湘南新宿ラインや上野東京ラインから宇都宮線に入る列車も停車します。また東武日光線も隣接しており、東武鉄道下り線の一つ手前は南栗橋ですが、この駅名は神奈川方面でもよく見かける、神奈川県大和市の中央林間という駅から東急田園都市線で二子玉川とか渋谷を通り、さらに東京メトロ半蔵門線をくぐって東武線に出現、そのまま南栗橋まで直通なのですね。「南栗橋行き」の電車が多摩川を渡ってくると、まだまだ先は長いよ〜と思ってしまいます。
同じようなことは東京都葛飾区の青砥から都営地下鉄浅草線をくぐって京浜急行で三浦半島突端の三崎口まで、あるいは小田急多摩線の唐木田とか多摩センターから地下鉄千代田線をくぐってJR常磐線の我孫子や柏まで、さらには西武池袋線の飯能や所沢から地下鉄副都心線や東急横浜線を通ってみなとみらい線の横浜中華街まで…など幾つもあり、思わぬ路線で思わぬ鉄道会社の車両が相互乗り入れで走っているのを眺める楽しみが増えてきました。
…と今回はそういう話ではなくて、私も最近は東急田園都市線の奥の方で仕事をする機会も増えてきて、そちらへ行く先々で「南栗橋」の行き先表示を目にするようになり、どんな場所かなと興味津々だったわけです。ところが先日今度は東武日光線の幸手方面で仕事をしたり遊ぶ機会があり、幸手(さって)の1つ先が南栗橋、もう1つ先が東北本線と接続する栗橋でした。
さっきからクドクド書いてますが、『乗り鉄』の人でなければ興味ないですよね(笑)。まあ、東京に住んでいるとチョイチョイ見かける駅名ではあるけれど、そんなに意識に上ることも少ない埼玉県の駅ですが、ちょっと駅前をブラブラしていたら、驚くべき史跡というか、見どころスポットに行き当たったのです。栗橋駅の東口からほんの200メートルくらいのところに、何と静御前のお墓がありました。
静御前(しずかごぜん)…、ン…?、どこかで聞いた名前。源平時代のNHK大河ドラマを観ていた方なら覚えていらっしゃると思いますが、義経の愛妾で当代随一の舞の名手と謳われた京の白拍子の美女です。南北朝時代以降に書かれた義経記によれば、京都に日照りが続いて干魃の危機が迫った時、後白河法皇が100人の美しい白拍子を集めて雨乞いの舞を踊らせたところ、静御前が舞う番になった途端、たちまち黒雲が天を覆って激しい雨が3日3晩降り続いた、それで日本一の白拍子として名を馳せたのが静御前だったそうです。そして京都の警固に当たっていた源義経が静御前を見初めて愛妾にして、生涯相思相愛を貫いたことになっていますが、義経には頼朝の斡旋で正室に迎えた郷御前もいたわけですね。昔はそんなの当たり前だったのでしょうが、現代ならばマスコミ関係者たちにとっては絶好の週刊誌ネタ、昼時のワイドショーネタ。この郷御前については後ほどまた少し。
ところで白拍子(しらびょうし)とは平安時代から鎌倉時代にかけて歌や舞を職業にしていた人たちで、男装して舞ったというから、さしづめ現在ならば宝塚歌劇というところか。そんな白拍子を100人集めて雨乞いの舞を命じたというのですから壮観だったでしょうね。今でも超大型台風だの豪雨だの異常気象が予想される時は、AKBや乃木坂、欅坂といったアイドルグループを集めて無事を祈るイベントでもやらせたらどうでしょうか。また白拍子には男もいたらしいですから、ジャニーズにも頑張って貰いたいですね。万一被害が出たらその興行収入を復興対策に投入するという現代版の白拍子…(笑)。
さて源平の戦いが終わって平家が滅びた後、鎌倉に幕府を開いて武家政権を立てた頼朝と、京都で後白河法皇の信任も厚く、頼朝の許可も得ないままに朝廷からの任官を受けた義経の対立が深まり、義経が許しを乞おうとしたが鎌倉近くの腰越から先へは入れて貰えず、失意のうちに京都へ戻っていったんは頼朝追討の院宣を得たが、逆に朝廷に手を回されて義経追討の院宣を出されるに及び家来を連れて京都を脱出、摂津の大物浦から船で九州に落ち延びようとしたが大嵐と平家の怨霊のため難破し、主従散り散りになって吉野の山に身を隠したなどという話は、歴史の本や歌舞伎の物語やNHKの大河ドラマで有名ですね。
義経は京都を脱出する際、静御前と正妻の郷御前も一緒に連れて逃げています。正妻と愛妾が脱出行を共にするなど現代の芸能レポーターが見たら何というでしょうね。吉野の山中に身を潜めた後、義経は静御前だけを京都に帰したようです。白拍子として京都で華やかに育った女性にはこの先の逃避行は無理だと判断したのかも知れませんが、東国武士の娘だった正妻の郷御前はその後も奥州平泉まで一緒に落ち延びて、義経と最期を共にしました。4歳になる長女は義経自身が手を下したとのことです。無理心中ですね。
現代の感覚では到底理解不可能なこの正妻と愛妾の物語は、それだけでもドラマの題材になると思いますが、さらに不埒な物語が義経に関わる3人目の女性です。壇ノ浦で義経の軍勢に捕らえられた平時忠は、自らの命乞いと押収された文書の返還を求めるため、義経に我が娘の蕨姫を差し出したと伝えられています。賄賂の品物のように扱ったわけですね。しかも蕨姫は先妻の子ですでに婚期を過ぎていたから義経に貢ぎ、現妻が産んだ若い方の娘は惜しいから手元に残しておいたとのこと。戦国時代の政略結婚よりもなおタチが悪い。義経をめぐる3人の女性のうちで最も薄幸と思いますが、蕨姫だけはその後も生を全うしたという説を述べる人がいるのに救われた思いがします。
話を戻して、吉野山で義経主従と別れた静御前は、せっかく義経が護衛に付けてくれた男どもに裏切られて金品を持ち逃げされ、山中を彷徨していたところを鎌倉方の軍勢に捕らえられました。鎌倉へ送られて義経の行方を問い詰められますが、その尋問記録は鎌倉幕府の正史と言われる吾妻鏡にかなり具体的です。吾妻鏡は源氏から政権を奪った北条氏による歴史書だから、頼朝の冷酷な非人間性を強調するために静御前という架空の女性をでっち上げたという説を唱える人もいますが、尋問記録の具体性や史実との整合性を考えると、やはり静御前は実在の女性だったと思いますね。
静御前は鎌倉に留置されている間に、頼朝の命令で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露させられます。それが有名な“しずのおだまき”の歌です。
しづやしづ しづのをだまき くり返し
昔を今に なすよしもがな
しづ(倭文)の布を織る丸い麻の糸玉から糸が繰り出されるように、この世も同じ道を巡り巡って、また昔の義経様と一緒にいられた世が戻ってこないかしら、という楽しかった昔を偲ぶ切ない歌ですね。
さらにもう一首歌いながら舞いますが、これはわざわざ訳を付ける必要もないほどもっと直接的です。
吉野山 峰の白雪 踏みわけて
入りにし人の 跡ぞ恋しき
自分の面前にもかかわらず露骨に義経を慕う歌を詠んで舞った静御前に頼朝は激怒しますが、妻の北条政子が、あれが女心ですよと諫めて取りなしたといいます。
静御前はこの時義経の子を妊娠していたため、出産まで鎌倉に留められました。もし妊娠中の子が男子ならば成長して頼朝を仇としてつけ狙う恐れがあったからで、不幸にも男子だった静御前の子はただちに殺され、静御前はそのまま放免されました。頼朝自身は1159年の平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の子で、清盛がつい情けをかけて命を助けたために(死を免じて伊豆へ島流し)、後に源氏の頭領として平家を滅ぼすに至ったことを思えば、これから討ち滅ぼそうとしている義経の子(自分の甥っ子)を助けるわけにはいかなかったのでしょう。
源平時代の残酷物語と言ってしまえばそれまでですが、平家討伐に勲功のあった実弟の義経を討ったことといい、生後間もないその男子をも殺したことといい、頼朝は後々の世までも冷酷な人非人として罵られることになりました。兄頼朝から理不尽な仕打ちを受けた九郎判官義経に対する同情、それが後に“判官贔屓(はんがんびいき)”という言葉を生みました。頼朝の冷酷な処置の裏には日本人の心情に合わないユダヤ的な打算が見えます。第二次大戦中、ソ連とナチスドイツから迫害されたリトアニアのユダヤ人は杉原千畝によって命のビザを発行して貰いながら、戦後イスラエルを建国するやパレスチナ難民に対して冷酷非情な政策で臨んでいる、頼朝にも共通していると思いますが、やはり政治的権力を維持するためには温情は邪魔なんですかね。
子を奪われた静御前は京都へ帰されましたが、その後の運命については諸説あります。義経への想いを断ち切れず、奥州平泉に身を寄せている義経を訪ねようとする旅の途中、現在の久喜(栗橋の隣)付近で義経の最期を知り、出家してその菩提を弔うために京都に戻ろうとしたが、それまでの心身の無理が祟ってこの地で22歳の若さで没したいうのが、終焉の地の位置関係から言って諸説の中で最も妥当なように思えます。遺骸は侍女の手で当時久喜にあった高柳寺に葬られたとされ、現在茨城県に移っているその寺には「厳松院殿義静妙源大師」という戒名と、文治5年(1189年)9月15日に亡くなったという過去帳が残っているそうです。
時代は下って江戸時代の1803年(享和3年)、墓が無いのを憐れんだ中川飛騨守忠英が「静女之墓」という墓誌を建てたのが上の写真で、現在ではその当時の墓は古くなったので傍らのガラスケースに収められ、新しい墓石に替えられていますが、栗橋駅東口の墓所では、ご覧のように静御前をラベルにあしらった“ゆめ静”という日本酒が売られていたり、現代風の凛々しいお嬢さん風に描かれた静御前の立派なパンフレットが配られたりしていました。ちなみにこのパンフレットの裏面はジャニーズ風の源義経が描かれています(笑)。これまで想像もしていなかった東京の近辺に、義経と静御前が今も息づいていて驚いた次第です。
さて栗橋駅の隣、南栗橋から東武線に乗って、東京メトロ半蔵門線を経由して東急田園都市線に入り、終点の中央林間の1つ手前につきみ野という駅があります。田園都市線には“あざみ野”、“つくし野”、“つきみ野”と紛らわしい駅名があって、慣れないと間違えて降りてしまう恐れもあるのですが、そのつきみ野付近はI舞の里と呼ばれていて、付近には石器時代から中世までの歴史的遺物も多いそうです。また田園都市線と中央林間で交差する小田急江ノ島線には鶴間という駅もあり、なぜこのあたりをI舞(I間)と呼ぶかについて、幾つかの伝承があります。一つは鷹狩りに来た頼朝が付近でIが舞うのを見たから、もう一つは頼朝から鎌倉入りを拒否された失意の義経がこの地を通った際にやはりIが舞うのを見たからだそうですが、鎌倉から京都へ戻るのに、真北のつきみ野方向に道を取るのはちょっと無理がありますか。しかし義経はこの時、頼朝に献上しようと思って持参してきた宝物をこの地に埋めたという伝承もあるそうです。義経を許していればその宝物を手に入れられたのに、ザマ見ろ頼朝…という“判官贔屓”の心情が伝わってくるようです。