明治時代
下の写真は明治村で撮影したものです。明治村は愛知県犬山市にあり、広大な敷地内に明治時代の事物が散在する大規模な“博物館”で、その展示物は旧帝國ホテル玄関、安田銀行会津支店、大井牛肉店、西郷従道邸、森鴎外と夏目漱石邸、小泉八雲の避暑用邸宅、旧北里研究所本館、旧日赤中央病院病棟、品川灯台、その他連隊兵舎、監獄、裁判所、学校、県庁など明治時代を代表する数々の建造物の他、ご覧のような蒸気機関車や京都市電なども復元されて村内を走っています。確か馬車や人力車もいたような…。また明治時代の警官の制服を着てサーベルを差したボランティアらしき案内の方もいらっしゃいましたし、鉄道員も明治時代の服装、その他の建造物でもそれぞれ明治時代風の服装で来場者を案内していました。
これは日本で最初に新橋・桜木町間を走った蒸気機関車で、当時は“陸蒸気(おかじょうき)”と呼ばれていました。これに対する“海蒸気”という言葉はありませんが、たぶん日本に開国を迫った欧米の蒸気船を意識して、黒煙を吐いて陸地を走る機関車に“陸蒸気”という名前を付けたのでしょう。
最初の頃は煙突から煙と共に吐き出される火の粉が散って沿線に火事が起こることもあったそうです。「機関車やえもん」という童話がありましたが(最近の子供たちは機関車と言えばトーマスのようですが)、このお話の中にも旧式機関車やえもんが火の粉を撒き散らして火事になり、怒った農民たちに追いかけられるという場面がありました。
小学校の社会科の時間、確か愛知県の岡崎か刈谷のあたりだったと記憶してますが、東海道本線の敷設経路をめぐって、陸蒸気に放火されてはたまらんと鉄道反対運動がまき起こり、当初の計画を変更せざるを得なくなったと習いました。しかしその後、蒸気機関車自体も改良されて火の粉を撒き散らすこともなくなり、さらに電気機関車の時代になって、東海道本線沿線は工業化されて繁栄したのに対し、鉄道誘致に反対した地域は逆に取り残されてしまったということです。
私が小学生の頃は、こんな話も先見の明の有る無しが地域の発展の明暗につながるんだよという教訓でケリとなりましたが、最近ではどうなんでしょうか?つい先年、やはり愛知県の別の地域である国際博覧会の会場設定をめぐって自然保護に影響が出るとして国際委員会からも査察が入ったり、冬季オリンピックの競技場建設の際にも自然保護の立場から注文がついたりしています。開発か自然保護かが問われる時代の流れになっているのに、政治家や経済界の要人たちの頭脳がいつまでも明治時代のままではいけません。
これは復元された京都市電。確か開業当初は電車の前をお先走りの若者が、交通安全のために「電車が来るぞ、電車が来るぞ」と触れ回って、軌道上からヤジウマを追い払っていたというユーモラスな話を読んだこともあります。電車の先頭についているネットはたぶんヤジウマに当たっても怪我をさせないようにという配慮かも知れません。
ところで明治時代とはどういう時代だったのでしょうか。確かに蒸気機関車や市電に代表されるような技術革新の時代でした。すでに産業革命を興していた欧米列強から、次々と新しい当時の先端技術がどっと流入してきたからです。
では明治以前の日本は欧米に比べて後進国だったかというと、そんなことはありません。江戸時代も長崎出島のオランダ商館を通じて逐次ヨーロッパ文明の情報は日本にも入ってきていましたし、そんなものはなくても関孝和の数学とか、伊能忠敬の地図だとか、江戸時代の基礎科学、応用科学のレベルは決して欧米に負けるものではなかったはずです。工芸や手工業のレベルだって世界有数でした。茶坊主のからくり人形など大したものです。
さて明治時代が日本史の上での大きな分岐点である理由は何でしょうか。歴史の流れの上では1868年に慶応から明治に改元された、ただそれだけのことですが、これは仏教導入と並ぶ日本史上最大規模の変革でもあったわけです。源頼朝の武家政治開始や昭和20年の敗戦なども明治の変革に比べたら小さなもの…、だからこそ“明治維新”と呼ぶのです。
明治時代の最大のキーワードは、私は産業革命だと思います。他のすべての変化はこの産業革命を遂行するための手段に過ぎないと言っても過言ではないと考えています。
たとえば茶坊主のからくり人形などは機械の造詣が深く、手先の器用な人がいれば作ることは可能です。古代エジプトや中国にも自動人形はあったといいます。しかしそういう手工業体制では列車を走らせることはできません。日本列島が藩に分かれて割拠している状況で鉄道を敷設できるでしょうか。用地買収の問題もありますし、機関士の養成の問題もありますし、線路や機関車を作る主材料である鉄の生産の問題もあります。製鉄のためには鉄鉱石の輸入、石炭採掘、労働者の養成と確保などさまざまな要素が必要ですが、これらは強大な中央集権国家が指令しなければ不可能なことです。
万事がこの調子です。したがって明治時代とは、日本が官民あげて重工業を興し、列強に追随するための強力な中央集権国家を作り上げた時代と、私は個人的には総括しています。単なる文明開化の時代ではありません。最近では“地方の時代”とか言って地方分権が叫ばれ、鉄道なども明治39年に一旦国有化されたものが昭和62年にJRに民営化されるなど、一見明治時代と逆の方向に動いているようにも見えますが、これは中央の統制が揺るぎないものになったために、金を食うお荷物だけは地方に押し付けようというだけのことです。再び幕藩体制の世になることではありません。
江戸時代以前の人と、明治時代以降の人との最大の違いは、明治以降の人は日本国民として生まれたことです。江戸時代までは○○藩の武家の子、△△藩の農民の子、あるいは□□藩の商人の子として生まれ、原則として生まれた時の身分に縛られたまま生涯を終えました。
しかし明治以降の日本は近代的国民国家で、国民国家の最大の目的は産業革命を推進して産業化社会を形成することですから、日本の国土に生を享けた以上、国家のこの目的から逃れることは出来ません。そして日本国家が産業社会を維持するための市場経済に貢献することをイヤでも求められているわけです。国民国家の国民にとって労働と国防の2つが主要な義務で、あと納税の義務だとか教育の義務などはこれらに付随するだけです。
坂本龍馬のように脱藩(脱国?)できればいいのでしょうが、現在の地球上のほとんどの地域が同じような原理で動く産業化社会の国民国家ですから、そういう脱藩者(脱国者)の生きる余地はありません。こういう国家の原型が完成したのが明治時代だったわけです。明治時代の建造物とか乗り物とかは“過去の遺物”として明治村に展示されていますが、明治と共に始まった国民国家の枠組みは大正・昭和・平成にわたって連綿と続いており、まさに現在進行形です。
明治維新以後に起こった戦争や外交問題、内政問題は決して過去の歴史ではなく、現在も同じことを繰り返しうる歴史なのです。我々は一族が両軍に分かれて武力で争うことを心配する必要はありません。お家が取り潰されて仇討ちをする機会もないでしょう。しかし江戸の町民のように、日本が国家として関与する外交や内政問題に対して傍観者でいることは出来ません。我々は明治時代以降の近代・現代史をもっと切実な歴史として捉え、それらを教訓としてどういう国民国家を形成していくかを真剣に考える必要があると思います。