水戸

 先日、机の中を片付けていたら、ずいぶん古い写真が出てきました。これは私が小児科から病理に転進した最初の年のもので、日立市にある日立製作所の研究所に1泊2日で電子顕微鏡の講習に行った帰り、右端の先生(外科から病理に来ていた)の車で水戸の偕楽園に立ち寄った時のものです。慣れない電子顕微鏡の講習にクタクタに疲れていたせいか、帰途の偕楽園のことはあまり覚えていないのですが、梅の花が見頃だったような…、また時ならぬ雪がうっすらと積もっていたような…。(往路のことは、当時約1週間後に迫っていたつくば科学万博の会場が車の窓から見えたことなど鮮明に覚えています。)

 梅の花というのはかなり上品な花で、天神様の花でもあり、またほのかな香りも愛でられて、古くから和歌などにも詠まれているのですが、何故か日本人にとっては桜に比べて印象が薄い傾向があります。
 
梅は咲いたが〜桜はまだかいな〜
なんて歌は梅の花に失礼というものですが、確かに梅の枝に可憐な花が2輪3輪と遠慮がちに咲く慎ましい風情に比べて、1本の樹木がごっそり花をつける桜の方が派手でボリュームもあって見応えがありますから、もし桜の花の時期が梅よりも1ヶ月くらい早かったら、日本人は梅の花など見向きもしなかったかも知れません。

 それはともかく左端の私の若いこと、まだ30歳代前半でしたから…。年月というものは過ぎ去ってしまうと本当に早いものです。まさか自分が50歳代の日々を送ろうとは想像さえしていませんでした。せめてもの救いは、30歳代、40歳代の時にそこそこサボらずに、やるべき事の半分くらいはやったと自分を慰められることでしょうか。

 ところで水戸偕楽園といえば、岡山の後楽園、金沢の兼六園と並ぶ日本3公園の1つ、天保13年(1842年)に水戸藩第9代藩主徳川斉昭によって造園されたということですが、この水戸藩の7代前、すなわち第2代藩主が徳川光圀、俗にいう水戸黄門です。
 史実とは全然違うらしいのですが、藩主の座を退いて隠居の身となった光圀が、助さん(佐々木助三郎)・格さん(渥美格之進)らを供に連れて諸国を漫遊、各地にのさばる悪人どもを懲らしめるという定番の筋書きが昔から日本の庶民に圧倒的な人気を得ていて、戦前から何度も何度も映画化されてきましたし、テレビ時代になってからは『水戸黄門』シリーズが放映されていなかった期間の方が少なかったと思います。
 何で日本人は現代に到るも、飽きもせずに何度も何度も繰り返し繰り返し『水戸黄門』シリーズに夢中になり、常にそこそこの視聴率を打ち出しているのでしょうか。今回は水戸を訪れた時の古い写真が出てきた機会に、この国民的物語について考えてみます。


 テレビで毎週放映されている『水戸黄門』のストーリーはおそろしく単純明快です。身分を隠して諸国を漫遊する黄門様一行がどこかの藩にやって来ると、罪も無い善良な民が権力者の横暴に泣かされている、重税を課せられるなんてのはまだ序の口で、役職を罷免される、奴隷的に使役される、身内を殺されるなど、まさに権力者は自分の欲のためにやりたい放題、その横暴は目に余るものがあります。
 善良な民の苦しみ、悲しみを見るに見かねた黄門様一行はさっそく捜査に着手、悪党たちの不正を暴き、民衆の平和な生活を取り戻してやるというところで話は完結するのですが、この最後の結末の部分だけは必ず判で押したような展開になるのがとても可笑しい。

 悪党ども(悪代官や悪の豪商など)の野望がまさに成就してしまうかというその瀬戸際、まだ身分を明かしていない黄門様一行が悪党どもの前に立ちふさがると、悪党どもは往生際も悪く、刀を抜いての大立ち回りとなる、シリーズ中にただの1作でもこの段階で降参する悪者がいたでしょうか?
 殺陣のシーンがクライマックスに達した頃、黄門様が言います:
「助さん、格さん、そろそろ良いでしょう。」
すると助さんと格さんが黄門様を背後に守って仁王立ちとなって、大声で叫びます:
「エーイ、静まれ、静まれ!この紋所が目に入らぬか!」
この有名なセリフと共に、あの有名な印籠も…。
「こちらにおわす御方を何と心得る?先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ。御老公の御前である。一同の者、頭が高い!控えおろう!」
するとつい今まで刀を抜いて刃向かっていた天をも恐れぬ悪党どもまでが情けない顔になって、ヘナヘナと土下座してしまうのです。あの印籠が本物か偽物かを確かめもしないで…。
 この段階に到るも、「水戸のジジイだか何だか知らないが、面倒だ、殺っちまえ!」と叫んで切りかかっていった根性のある悪党も、確か1回くらい見たような気もしますが(何しろ毎回欠かさず見ているわけではないので、詳しい事情は判りません)、大部分の悪党は黄門様一行に一喝されただけで腰砕けになり、おとなしく役人に連行されて行ってしまうのです。
 こうして善良な民衆の平和な生活が取り戻されたのは喜ばしいことではありますが、私はたまにこの国民的ドラマを見るたびに複雑な心境になります。

 何でこの『水戸黄門』シリーズ、『ウルトラマン』シリーズと同じように、毎回毎回同じような結末にしかならないのでしょうか?ウルトラマンでは毎回いろんな怪獣や宇宙人が登場して町や村を破壊します。そして怪獣や宇宙人が暴れ回って手に負えなくなった頃合を見計らって、主人公がウルトラマンに変身、しかしそれですぐに敵を倒すかと思えば、シュワッとかググッとか変な声を上げながら怪獣や宇宙人と取っ組み合いの格闘を演じているうちに、胸のカラータイマーが点滅を始めて、あと地球上にいられる時間が3分間しかないことを知らせます。(何で宇宙人であるウルトラマンの胸に地球滞在限界時間を知らせるタイマーが必要なのかは判りません。)
 さあ、いよいよ時間切れ寸前、その切羽詰った瞬間、ウルトラマンの手からスペシウム光線という万能の武器が発射されて、哀れ怪獣は真っ二つ、地球の平和は守られた、メデタシ、メデタシという展開になるのですが、何でウルトラマンは最初からスペシウム光線を発射してさっさと敵を倒さないのでしょうか?黄門様がさっさと印籠を出さないのと同じです。

 『ウルトラマン』シリーズの問題点は、地球の平和は宇宙人(=ウルトラマン)の力を借りなければ守れないという設定になっていることです。物語の中では科学特捜隊という地球を防衛する組織が存在するのですが、1回として科学特捜隊だけでカタを付けたことがありません。そりゃ、科学特捜隊の武器だけで怪獣や宇宙人を退治してしまって、ウルトラマンの出る幕が無かったら、全国の良い子たちはガッカリしたに違いありませんが、それでもやはり地球の平和は地球人自身の手で守るというのが本来のスジです。(もし北野武監督が制作指揮したら、シリーズ中に1回くらいそういう展開があったかも知れません。しかし科学特捜隊って結構立派な基地本部や強そうな戦闘機を持っているんですが、何をしてる組織だったんでしょうね?)

 『水戸黄門』シリーズの問題点は、民衆の平和が権力者によって奪われた時、やはり権力側の人間である水戸黄門の力を借りなければ何もできないという設定になっていることです。つまり権力の横暴や不正は民衆の力だけでは正せない、別の権力者の助けがなければ民衆は自分の権利や生活を守れない、果たしてそれで良いんでしょうか?

 こういう勧善懲悪物語が長年にわたって圧倒的支持を得るような国民の気質は、我が国の政治的風土にもよく表れています。例えば2005年の郵政民営化絡みの総選挙では、小泉純一郎の自民党が圧勝しましたが、あれは小泉純一郎が水戸黄門的なカリスマ性をふるったからだと思っています。あの時、小泉純一郎は野党に勝ったわけではない、自民党内にあって古い利権にしがみついていた派閥の領袖どもに勝ったのです。あの前後、国民の血税を道路、道路と無駄な公共事業に注ぎ込んで恥じない輩どもに国民は嫌気がさしており、マスコミもそういう輩どもを“悪相=人相が悪い”と書き叩いて物議をかもしたりもしていました。そういう“悪党”どもを一掃してくれそうな雰囲気を持っていたのが小泉純一郎でした。

 しかし権力者に頼って一時的に取り戻した“平穏”など危ういものです。所詮は小泉純一郎も権力側の人間、水戸黄門も権力側の人間。時は移って小泉純一郎も政界での表立った影響力を失いましたが、そうなればまた道路、道路と騒ぎ立てる族議員どもが再び勢いを得て跋扈する世の中になりました。国民はまた新たな水戸黄門御一行様のお越しを待ち望んでいるようです。ガソリン税撤廃という紋所を持った黄門様のお越しを…。

 要するにアメリカの大統領選挙と何が違うかと言えば、日本では1人1人の国民はただ選挙結果を待っているだけなのです。確かに自分にも1票の選挙権はありますが、結局はそれだけなのであって(それすら行使しない人の率もかなり高い)、自分の地域や業界の目先の利益が関わってこない限り、自分自身が他の有権者に働きかけて、特定の政党や候補者への支援を要請するような政治活動はほとんどしない。ただ“山が動く”のを待っているだけ、“水戸黄門御一行様がお越しになる”のを待っているだけなのです。

 確かに「この紋所が目に入らぬか」と悪党どもを平伏させて、庶民の平和を守ってくれる黄門様の姿は頼もしく、胸のすくような気がします。しかしこの黄門様の大活躍、実はとんでもない危険と隣り合わせであることにお気付きでしょうか。
 黄門様は各地方で悪事の噂を聞きつけると、早速お供の者たちに命じて状況を調査して悪事の証拠を集めさせます(警察の捜査に相当する)。そして紋所の入った印籠を示した瞬間、今度は裁判官に変身して悪党どもに罪状を言い渡すのです。最近のストーリーでは刑の言い渡しは当該藩主などに任せるパターンが多いようですが、別の人気時代物シリーズ『遠山の金さん』では、もっと露骨です。何しろ奉行所の白洲に引き出された“容疑者”の前に現れた“裁判官”は、何と犯行現場に居合わせた“刑事”なのですから…。
 水戸黄門にしろ、遠山の金さんにしろ、こういう捜査権と裁判権を一身に兼ね備えた人物がヒーローになる恐ろしさを十分心得た上で時代劇ドラマを楽しんでいるのなら問題はないのですが、果たして日本国民の場合どうなのでしょうか?こういう国で裁判員制度など始めて大丈夫なのでしょうか?


                    帰らなくっちゃ