奈良

 奈良を訪れました。これは奈良市からやや南西、西の京の薬師寺境内です。薬師寺の象徴である金堂や東塔・西塔の周囲に人っ子一人見えませんが、別にシーズンオフに行ったわけではありません。
 それどころか秋の観光シーズン真っ最中。ただし奈良市内での会議に向かう途中、朝の8時半に時間があったので立ち寄ってみたら、公開時間が始まったばかりで、私の他には東僧坊のあたりに修学旅行の一団がいるばかりで、あとはまったくの貸切状態だったのです。早起きは三文の得、とはまさにこのことでしょう。
 金堂の薬師三尊像も、特別公開中の吉祥天画像も、心静かに思う存分拝観することができて、昔の権力者や有力貴族たちと同じように贅沢な時間を過ごしたわけです。

 写真は金堂の裏手からそれぞれ東塔(左)と西塔(右)を写してみました。この3つの建造物をバランス良く1枚の写真に写すのは、素人にとっては至難のワザです。今さら説明するまでもないでしょうが、東塔・西塔は庇が6段あって六重の塔に見えますが、実は大小2つで一組の三重の塔です。
 また東塔に比べて西塔と金堂がキンキラキンで綺麗なのは、1528年の兵火で東塔以外のすべての堂塔は焼け落ち、その後、昭和の戦後になって次々と再建されたからです。上の写真を撮影するとき背にしていた大講堂も平成15年に再建成って、見事な威容を誇っていました。

 だから昭和初期の歌人、佐佐木信綱が
 
ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔のうへなるひとひらの雲
と詠んだのは、もちろん東塔の方ですが、現在のような白鳳時代を再現した見事な伽藍群がなく、古びた東塔だけがポツンと建っていた薬師寺の境内も、それはそれで風情があったようです。まあ、いくら何でも仮のお堂はあったでしょうが、それでも再建成った現在の薬師寺境内とは比べ物にならなかったはず…。
 西塔の跡には礎石だけが残されており、塔の中心の柱を立てるための穴に雨水が溜まり、その水面に映った東塔の姿は、まるで在りし日の大伽藍たちの面影を偲ぶかのごとき趣きをたたえていたと、話に聞いたことがあります。

 私が初めて奈良を訪れたのは昭和43年の高校修学旅行の時、西塔再建は昭和56年ですから、当時は東塔だけが寂しく建っていたはずですが、修学旅行であっちこっち引率されるだけでは、物の風情などに心動かす余裕もなく、宿に着いてからは枕投げだの蒲団蒸しだのワアワア騒いでおりました。

 ところで私の高校修学旅行の日程ですが、当時のパンフレット(ガリ版刷り、と言っても今の若い人は判らないだろうな)を本棚の奥から探し出してみたら、第1日目は名古屋から室生寺、長谷寺を巡って多武峰へ、第2日目は飛鳥寺を起点に飛鳥地方見学、第3日目は西の京、斑鳩、南山城、醍醐、大原などコース別に見学して京都入り、第4日目は京都市内自由行動、第5日目帰京、となっており、私はコース別見学の日は斑鳩を回ったと記憶しているので、絶対に高校時代は薬師寺へは行っていないのです。
 しかし40年近くも昔の思い出は曖昧になり、このページを書くために旅行のパンフレットを再び手に取るまでは、修学旅行で薬師寺を訪れたような錯覚に陥っていたし、またせっかく訪れた斑鳩も、夕暮れの秋の田圃の向こうに法起寺の三重塔が見えたことくらいしか覚えていません。

 高校の先生方は生徒たちを奈良・京都まで引率するのだから、せめて歴史や地理の勉強に役立たせようと思って、一生懸命に旅行のコースを考えてくれたのでしょうが(そんな“社会勉強”がタテマエに過ぎないことも御自分の学生時代の経験から御存知だったかも知れませんが)、結局のところ、団体旅行などというものは親睦第一で、旅先の風物の見聞を広めるためにはクソの役にも立たないというのが最近の私の感想です。

 私が奈良の地を自分なりに理解したのは、大学時代に数度、関西方面を独り旅で回ってからでした。一口に奈良と言っても、平城京と飛鳥はまったく違います。日本の古代政権は先ず飛鳥に都を構え、次第に北上して710年に平城遷都となりますが(この年号は、なんと美し平城京と覚えました)、引率して連れて行って貰っただけの修学旅行では、奈良時代も飛鳥時代も頭の中でゴチャゴチャになっていました。薬師寺も最初は飛鳥の地に建立されたものが、平城遷都で西の京に移転したのです。そんなことも何の脈絡もないまま雑然としていました。

 しかし奈良付近を縦横に結ぶ近畿日本鉄道を利用して自分なりのコースを辿ってみて初めて飛鳥から平城京への日本史の流れが見えてきました。飛鳥と奈良は電車で行けば30〜40分の距離、この微妙な距離は古代の日本にとってどのような意味を持っていたのだろうか、というような疑問も湧いてきました。飛鳥の地から北を望めば、さほど険しい地形があるわけでなく、水運の便の良い平野が琵琶湖あたりまで続いているのです。
 飛鳥の古代政権はなぜさっさと北上しなかったのでしょうか?これを研究している専門の学者もおられるでしょうが、私の素朴な解答は、友好的でない土着政権の勢力範囲である奈良盆地北部から一定の距離を置きておきたかったから、というのが一つ。さらに当時の稲作の北限が飛鳥あたりだった、というのがもう一つ。

 素人の考えですから当たっているかどうかは問題ではありませんが、土地の風物なり歴史なりを自分なりに理解して、それに疑問を持ったり意見を述べたりするためには、やはり独り旅が有用です。
 俺は絶対に独りでしか行かないという意固地な人も考え物ですが、指導的な立場に立たねばならない人であれば、たまには独り旅に出かけられるくらいの器量と才覚は持って欲しいと思います。世間からいわゆる“先生”とか“社長”などと呼ばれるような人たちも、視察だとか出張だとか学会だとかいって、いろいろな土地へお出かけしているようですが、独りで旅先を回る才覚もなく、部下や出先の接待係に案内させて親睦を求める以外に能も無い人たちが、リーダーシップを発揮することなど期待できません。

 「バスに乗り遅れるな」というスローガンほど、こういう無能なリーダーを象徴する言葉はないでしょう。文字通り、パック旅行のバスに乗れれば安心だという他力本願ですが、このスローガンは第二次世界大戦勃発後、ナチスドイツの快進撃に目を奪われた日本の指導者たちを魅了したのでした。焦ってナチスドイツのパック旅行に参加することなく、自分の目で旅程を確認し、自分の脚で歩いて行けるだけの才覚を持った指導者を持っていたら、20世紀の日本の進路はずいぶん変わっていたと思います。
 最近の日本の指導者はアメリカのバスでしか旅行できないみたいですし、国内でも小泉首相のバスは超満員のようで、やはり日本人はパック旅行の親睦しかできない民族なのでしょうか。護送船団方式と言われる日本企業の体質も、バブルに乗り遅れないように狂奔した経営者も同じかも知れません。



 余計な話はさておいて、次回は飛鳥へ御案内いたしますが、薬師寺について2つほど追加しておきます。

 薬師寺は1528年(享禄元年)の兵火で東塔以外は灰燼に帰したと幾つかのパンフレットや案内書にありますが、戦国時代の当時、薬師寺付近でめぼしい合戦の記録はありません。大和に勢力を持っていた戦国大名の筒井順興による放火とされていますが、順興はこの前年、越智民部少輔、畠山稙長と共に京都へ兵を出して足利義維の軍に備えたという記載がありました。その後、1528年に大和へ帰陣とありますが、その折のトラブルでしょうか。薬師寺の焼失は有名なのですが、この辺の歴史的事実を詳しく記述した文献を御存知の方は教えて下さい。

 もう一つ、立原道造の詩「のちのおもひに」は、私が一時期暗誦するくらい好きな繊細な詩でした。

夢はいつもかへって行った
山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり
火山は眠っていた
―そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいていないと知りながら 語りつづけた…

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう


この詩の第1行目とか、下から3行目と6行目などは身震いするくらい好きで、当時の私の心象風景が浮かぶようですが、この詩の上から9行目の
日光月光というところ、島や波や岬など海の風景を詠んでいるので、やはり波にきらめく太陽や月の光と解釈するのが素直だと思いますが、私は何か道造が薬師寺金堂の薬師如来の左右におわす日光菩薩と月光菩薩を思い描いていたように感じられてなりません。波に反射する特に陽光のイメージは、この詩全体に流れる弱々しいけれど凛とした絶望感に比べて、あまりにも眩しく健康的すぎるからですが、皆様はいかがでしょうか。

                  帰らなくっちゃ