新潟

 新潟は私が本当に初めて独りで旅した街でした。昭和46年の夏、母が心臓病で手術した折に会津若松の大叔父が見舞いに来てくれた御礼ということで、その年の秋に私が名代として会津を訪れ、そのまま磐越西線で新潟へ向かったのです。
 昭和46年と言えば私が大学に入った年、中学・高校時代は修学旅行とクラブの合宿以外には旅行などしたことがありませんでしたから、“旅”というものに対する憧れはありました。それでこの機会に初めて“独り旅”というものをしてみたいと思ったわけです。行き先については最初から何となく当てがありました。日本海を見に行こう、それで新潟です。


 昭和46年の秋、私は生まれて初めて“異郷”の駅に降り立ちました。“独り旅”の第一歩です。しかし私は旅行の素人でした。列車は切符を買って乗れば、そのまま目的地まで連れて行ってくれますが、その後はどこで食事をするか、どこで泊まるか、まるで知らなかったし、事前の準備も何一つしていなかったのです。新潟市の地図やガイドブックさえ持っていませんでした。当時は行き当たりばったりに歩き回っても、飛び込みで泊まれるようなビジネスホテルがあるわけじゃなし、駅のベンチで寝るほど勇気があったわけじゃなし、私は昔から少し無鉄砲でした。コンビニショップもないから、軽食や飲み物も手軽に買うこともできません。憧れの独り旅ではありましたが、新潟駅に降り立った瞬間から私は途方に暮れてしまいました。
 新潟駅の駅舎は当時とあまり変わっていません。駅を背にして大通りを海側へ歩き始めて振り返った時の印象を、新潟駅は今もとどめてくれています。あれから何回も新潟を訪れる機会がありましたが、そのたびに駅舎を振り返ってみて、初めての独り旅を思い出しています。


 信濃川の河口に架かる万代橋です。信じられないことに、私は初めて新潟市を訪れた時にこの川も橋もまったく見ていません。とにかく日本海を眺めることが目的でしたから、海の方向へどんどん、どんどん歩いて行ったのですが、いつまで歩いても辿り着けず、やはりその夜の宿が心配になってまた駅の方へ引き返した。その途中で某大手旅行会社のオフィスがあったので、宿を尋ねてみたら素っ気なく断られてしまいました。そりゃそうでしょう、まだ二十歳になるかならぬかの若い男が1人、突然フラッと入ってきて今夜の宿はないかと尋ねられても、旅行会社の人も薄気味悪かったんじゃないでしょうか。何しろ当時はまだ若者も含めて日本人全体がそれほど気軽に旅行などする時代ではありませんでした。山口百恵さんが「いい日旅立ち」を歌って国鉄のディスカバー・ジャパン・キャンペーンに一役買う数年前のことです。
 某大手旅行会社で宿の紹介を断られて、これはもう夜汽車で東京へ帰るしかないかと悄然と歩いて行くともう1軒、近畿日本ツーリストのオフィスがありました。駄目で元々と思ってここでも宿を尋ねると、ここでは3軒旅館を紹介してくれて、一番駅に近い宿を選んでくれました。だから私は近畿日本ツーリストにはずっと感謝しています。その後、大学の旅行の幹事で近畿日本ツーリストを使ったら、お前は東京の人間なのに関西の会社を使って珍しいと、大阪の友人から驚かれたこともあります。まあ、とにかくこの会社がなかったら私の今の旅行人生は無かったでしょうね。

 今になって考えてみると、私の最初の独り旅は新潟駅前をほんの数百メートルばかりウロウロしただけで終わってしまったのです。日本海を求めて何キロも歩いたように錯覚していましたが、駅前から万代橋まで1キロもありません。それなのに私はあの時、万代橋までも辿り着いていなかったのです。旅館を紹介してくれた近畿日本ツーリストのオフィスは今でもありますが、駅前からわずか200メートルばかりしかありません。
 初めての独り旅という不安と緊張で、数百メートルの距離が数キロにも思えたのでしょう。結局何も見ずに終わった新潟旅行でしたが、あれで旅の度胸がついて、その後の私の人生に旅を楽しむ余裕ができたわけですから、あの時にお仕着せの旅行などしなくて本当に良かったと思っています。
 ちなみに翌朝は旅館で朝食を済ますと、這う這うの態で新潟駅から北陸本線に乗り込み、次の目的地の金沢へ向かったのでした。金沢では先ず旅行会社を探して宿を確保するという知恵がついていましたので、前夜に比べればかなり心の余裕を持つことができました。

                    帰らなくっちゃ