お台場
お台場は今や東京都内有数のデートスポット、一大商業地域として有名であるばかりでなく、銀色の球体が特徴的なフジテレビの建物や、船の形をした「船の科学館」などが建ち並び、まるで私たちが子供の頃の雑誌に描かれていた未来都市そのものの景観を誇っています。また映画『踊る大捜査線』の舞台にもなりましたし、ゴジラも何回かぶっ壊しに来たようです。
都内からお台場に渡るレインボーブリッジの威容も素晴らしい。これも私たちが子供の頃の絵本や雑誌の話で恐縮ですが、こんな巨大な橋は日本には無いということで、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)の絵や写真を眺めながら、やっぱりアメリカは凄いなあと子供心にため息をついていたものでした。まさか東京にこんな橋が架かるとは…!日本に最初に架けられた巨大な橋は、北九州の若松・戸畑を結ぶ若戸大橋です。1962年のことでした。それ以後、金門橋に負けない巨大な橋の建設は日本各地で進められるようになり、我が国の橋梁技術の高さが改めて認識されるに至ったわけです。
そう言えば、ちょうど関門海峡やら瀬戸内海の大橋構想が動き出した頃に相当すると思いますが、何かの少年雑誌にとてつもない夢物語が掲載されたことがあります。全国新幹線網計画も進んでいた時期でもありました。千島・樺太からベーリング海までを橋やトンネルでつなぎ、世界各国の列車が乗り入れてアメリカやヨーロッパまで鉄道旅行ができるというものでしたが、これはどうやら夢物語で終わりそうです。どう考えても航空機やクルーズ客船にかなわないでしょうから…。
話が脱線しすぎました。一方、このレインボーブリッジの完成は1993年、薬師丸ひろ子さんや広末涼子さんが主演した映画『バブルへGO!!』という2007年頃の映画の中で、バブル崩壊を食い止めるために1990年にタイム・トラベルした主人公たちの目の前にあったのは、建設途上のレインボーブリッジ…。もちろんコンピューターグラフィックスの映像ですが、2007年と1990年の東京の景観の違いを最も象徴的に描いており、実に見事な制作の手法だと感心したものです。つまりレインボーブリッジはバブル経済時代の遺産というわけですね。
さて最近の若い人たち(あるいは大人でも)は“お台場”という地名は知っていても、その本来の意味を知らない人が多いように思います。
お台場は正式には“東京湾埋立13号地”というようですが、お台場の“台”は何かを載せる台のこと、何を載せるかといえば大砲です。
台場とは江戸時代に異国船(黒船)の来襲に備えて幕府が建設した砲台のことで、特に将軍のお足元にある品川砲台は敬意を込めて“お台場”と呼ばれるに至ったらしい。
ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航したのは1853年のことですが、こんな奴らに江戸城下まで入られてはたまらんと、幕府は江戸湾上に7ヶ所、品川御殿山下に1ヶ所の海上砲台を急遽建設しました。江戸湾に侵入した敵艦に対して正面と側面から十字砲火を浴びせることが可能なように配置されたようで、2度目に来航したペリーはこれを見て品川沖から退避しました。2度目のペリーにしてみれば、前年に開港を迫っておいてその返事を求めにきたわけですから、もし幕府が開国に逡巡しているようであれば、江戸の町に向けて威嚇射撃も辞さない覚悟くらいはあったでしょうが、その凶暴な意図を未然に防いだと言えるかもしれません。
どうもそうやって考えてみると、江戸幕府は日本史の教科書の記載だけ読んでいると、幕末にはかなり無能集団に成り下がっていたような印象さえ受けますが、その後の勝海舟による江戸城無血開城工作なども含め、非戦による国防という観点からは、後世日本に対して非常に優れた政策を示したと言えなくもありません。
同じく幕末に尊皇攘夷で無謀な実力行使(外国船打ち払いや生麦事件)を行なって下関戦争、薩英戦争を招いた長州や薩摩とは明らかに正反対の国防方針です。長州や薩摩はそうやって外国に対して攘夷の意地だけで事を仕掛け、圧倒的な報復攻撃を食らって目が覚めましたが、その何百倍、何千倍もの規模で同じ歴史を繰り返したのが太平洋戦争でした。太平洋戦争を戦ったのは長州や薩摩を中心とした明治政府の末裔たちです。
もしあの幕末の時代に、すでに朝廷に対して恭順の意を表していた徳川慶喜や勝海舟ら幕臣たちの発言力を残した新政府をスタートさせていたら、我が国は昭和時代にどんな歴史を刻んだか、歴史にイフ(IF)はないとはいえ、とても興味があるところです。偶然とは思いますが、日独伊三国軍事同盟に反対した海軍トリオ、米内光政(岩手)、井上成美(宮城)、山本五十六(新潟)は、いずれも旧幕府色の強かった地域の出身です。
さて今でこそお台場はホテルやアミューズメントパークや各種商業施設が建ち並ぶ都内有数の観光スポットですが、バブルが崩壊したばかりの頃は雑草の生い茂る空き地が延々と広がる廃墟のような場所でした。1995年に世界都市博覧会の中止が決まったため、進出を予定していた企業のキャンセルが相次いだためです。
その頃カミさんと一緒に、営業運転を始めたばかりの“ゆりかもめ”でレインボーブリッジを渡ってお台場を初めて訪れました。広大な空き地を使って犬のショーをやっているという広告を見て、犬好きのカミさんが行きたいと言い出したのです。真夏の盛りの日でした。カミさんはドレスでステージに立つ関係上、肌が陽に焼けるのを極端に嫌がります。庇の広い帽子や長袖の白い上着をも容赦なく貫通する強い日差しを避ける日陰さえないお台場の街角を(あれを“街角”と呼べるならば)キャアキャア言いながら、やっとの思いで“ゆりかもめ”の駅舎に逃げ込んだ日のことが今でも忘れられませんから、私は最近のお台場の賑わいを見ると、何か不思議な夢でも見ているような気がします。