大阪城
今年(2014年)は豊臣滅亡の戦いとなった大阪の陣からちょうど400年です。1600年の天下分け目の関ヶ原合戦以降、着々と政治的基盤を固めていく徳川家康に対して、方広寺の鐘銘事件をきっかけに豊臣方が臨戦態勢に入ると、徳川幕府もこれに対応して両軍はついに交戦状態に入ります。今からちょうど400年前のことでした。
豊臣方にはかの有名な真田幸村(本名は真田信繁)はじめ約10万の兵力が集まりますが、かつての全盛期の豊臣ならともかく、すでに政治の実権が徳川に移りつつあることを敏感に察知していた全国の武将が、そう簡単に豊臣に馳せ参じることはできません。幾つかの戦闘では局地的勝利もあったかも知れませんが、結局は寄せ集めの烏合の衆に過ぎず、最後は大阪城に退却して籠城戦に持ち込まれました。
ここまで大阪冬の陣の経過を見てくると、滅亡するべき組織にはやはりそれなりの理由があります。豊臣方に呼応したのが約10万、これに対して徳川方が動員した攻撃軍は約20万、通常は地の利や人の和を生かして戦える大阪方にとって十分な人数です。
歴史的には大阪方は牢人なども多くて統制がとれていない軍勢だったから、真田など豊臣恩顧の名将がいても劣勢に立たされたと言われていますが、問題はもっとずっと前の時期にあります。
真田幸村、幸村という名はこの大阪の陣あたりから巷に流布されるようになりますが、本名は真田信繁、この人は最後まで豊臣の恩義に応えて善戦したことで、それが庶民にも受けて徳川の時代にもずっと庶民から賞賛を浴び続けました。その意味では南朝の天皇をお守りした楠木正成が北朝天皇の時代を超えて伝わっているのと似ています。
しかし庶民が真田や楠木を讃えるのは何故か?それは自分には出来ないことに生命まで賭けたからです。徳川優勢、北朝優勢がすでに分かっているのに、敢えて反対側の陣営に最後まで忠義を尽くした、まさに任侠の世界です。徳川幕末の新撰組も同じですね。
こういう任侠の世界に個人の損得を超越して忠義を尽くすなど到底庶民には出来ませんが、それはほとんどの武将や大名にとっても同じこと、彼らにだって自分の家臣や家来がいるのですから、軽々しく負けが分かっている側に加担することは出来なかったはずです。主君の気まぐれな任侠に付き合わせるに忍びないし、第一そんな負けが分かっている側に加担するような主君では、その“危機管理能力”に疑問を抱かれて部下は離散してしまうからです。
思えば豊臣という“組織”にはもう人材を引き止める力が失われていた、と言うより、豊臣は秀吉のカリスマ的魅力で支えられてきただけの組織でした。秀吉亡き後も前田利家や加藤清正など有能な人材が揃っており、秀吉個人に備わっていた人望や権力を豊臣という組織に移行させるべく努力を試みたとは思いますが、やはり秀頼を溺愛する淀君の横やりが入ってはうまく行かなかったのでしょう。
その点、徳川家康は幼少の時期より今川の人質となって辛酸を舐め、一国の武将となってからも三方原で武田軍に蹴散らされて敗走し、己の弱さをひしひしと感じて自らを戒めたと言いますから、五大老として豊臣家を支える立場にあった時以来、ワンマン型のリーダーから抜け出せない豊臣の弱点を熟知していたと思います。
家康自体、自分の実質的な後継者である秀忠がどちらかと言えばボンクラであり、江戸幕府創立に当たっては将軍職の血筋という個人的才覚に頼らず、徳川という組織が実権を握り続けられるようなシステムを考案した、それが江戸幕府がミレニアム(千年紀)の1/4以上の長期にわたって君臨できた原因でしょう。私は大阪の陣前後の豊臣の内情を見れば、もし豊臣が大阪幕府を作っても、その後のヨーロッパ列強のアジア侵略の時代を生き延びる国であり続けることは難しかったと思います。
さて冬の陣で豊臣方が大阪城に籠もってしまうと、家康は力押しを避けて豊臣方との和睦交渉に当たります。秀忠は城攻めを進言したらしいですが、関ヶ原合戦にも遅参したこの後継者が戦争を理解していないことに家康は嘆息したかも知れません。こんな奴に江戸幕府の実権をワンマンで握らせたら、今日の大阪城の運命は明日の江戸城の運命…とまで思ったかどうかは分かりませんが…。
大阪は水の都、淀川の水を引いて縦横に巡らせた壕に守られた大阪城はまさに水に浮かぶ要塞そのもの、秀吉はこの要害の地を選んで築城したわけです。ここなら攻めるに難く守るに易い、しかも船も着けるので外国との交易にも有利です。
ここを力攻めするよりは一旦和議を整えて、ということで、両軍とも食糧・弾薬が不足したこともあって徳川も豊臣との和平に応じます。その時の和議の条件の1つ、大阪城の外堀の埋め立ての件が、いまだに東京人と大阪人の微妙な対抗意識につながっているかも知れません。
従来から城の争奪戦で壕の埋め立ては行われたようですが、せいぜい降伏・和議の象徴的で形式的なもの、だから豊臣もその程度だと思っていたところ、徳川は壕を徹底的に破壊し、埋めつくします。大阪冬の陣と、翌年の夏の陣の両軍陣形図を見ると、大阪城の南側の壕は完全に埋め立てられてしまっています。
ここまで埋め立てられては、豊臣側も家康の魂胆を悟ったはず、徳川は豊臣と並び立つ気は毛頭無い、もはや徹底抗戦あるのみ、こうして夏の陣が起こりますが、城の南側を完全に丸裸にされては、さすがの天下の名城も落城の運命しかありませんでした。
この完全に埋め立てられた南側の外堀跡は今は通りになっていて、そこにある商店街の名が『からほり(空堀)商店街』、おそらく最初は大阪人が江戸に対する恨みを子々孫々忘れまいとする執念で命名されたのでしょうか。万城目学さんの『プリンセス・トヨトミ』という小説はこの商店街が舞台になっています。この商店街の中にあるビルから大阪城まで秘密の地下道があって“大阪国”の議事堂までつながっている…という設定ですが、あとはネタバレしてしまうので興味のある方は本でお読み下さい。
さてではあの時、豊臣方に勝機はあったのでしょうか。
一つは淀君が秀頼可愛さの感情的な介入をせず、真田信繁(幸村)を大将にもっと理性的かつ組織的な戦闘をすればかなり持ちこたえたかも知れません。
もう一つは冬の陣の後にかなり無理してでも和議に応じず、徹底的に戦闘継続する手もあったでしょう。何しろ攻城側は相手方のホームグラウンドで戦うアウェイなわけですから、戦いが長引けば不利になります。遠征に疲れ果てて敵方に寝返る武将だっていたかも知れません。おそらく家康もそれを最も恐れていたはずです。
地の利は当然大阪方にある、しかも徳川遠征軍にあっては天の時もない、もともと豊臣は徳川の主君筋ですから、豊臣を討つ大義名分が立たないわけですね。だから戦いが長引けばやがて朝廷も民衆も徳川から離反する恐れが大きくなる。
それでも豊臣が抗戦継続できなかったのは、人の和がボロボロになっていたからではないでしょうか。豊臣は秀吉の時代に人心を離反させるような愚策をやっていた、1592年と1598年の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)です。当時の日本はヨーロッパ諸国さえ凌ぐほどの有数の軍事大国だったようですが、それでも二度にわたって10数万の大軍を動かした海外派兵は、豊臣恩顧の大名や武将たちの領国をかなり疲弊させたはずです。
そこへ持ってきて、続きは関ヶ原かよ、今度は大阪城かよ、記録に残っているかどうかは知りませんが、いくら秀吉に世話になったとは言っても厭戦気分は相当なものだったでしょう。やはりいたずらに隣国と事を構えたがる人間は国力を疲弊させて、肝心な時に自らの首を絞めることになり、組織を滅亡に導いてしまう。最近の我が国を見ていると尚更それを感じますね。