神戸港
よく歌謡曲やフォークソングの歌の舞台になった港町といったら、東の横浜、西の長崎、そしてもう一つがこの神戸でしょうね。神戸は他の2つに比べると少ないような気もしますが、私たちの世代ですと、内山田洋とクールファイブの『そして神戸』がすぐに思い浮かびます。五木ひろしの『長崎から船に乗って』も神戸に着いたんでしたね。
私が初めて神戸を訪れたのは、前にも書きましたが、小児科医を辞めて病理医に転向した年の秋のことで、あの頃も背後の六甲の山並みは紅葉で色づいていました。私のように関東地方で生まれ育った人間にとっては、関西はあの河内弁に象徴される独特な雰囲気に満ちているような気がして、何となく行きにくい場所だったのですが、神戸だけは横浜に似た街というイメージが強かったせいか、親しみを感じていたものです。
その神戸の街を大災害が襲ったのが1995年(平成7年)の1月17日朝のことでした。あの朝のことはよく覚えています。あの日は火曜日で、当時私は毎週1回、小田原の病院へお手伝いに行っていました。東京から小田原へは、新宿駅から小田急線に乗るか、東京駅から東海道新幹線に乗るか、2つの経路がありましたが、その日はたまたま東京駅から新幹線に乗ろうと思っていたところ、東京駅の新幹線ホームが異様な状態になっている、
「関西方面へのご旅行はお取り止め下さい」
駅員さんのアナウンスのその部分だけがまだ耳にこびりついています。いつもよりたくさんの乗客が駅構内にたまって右往左往していたのも印象的でした。
いったい何が起こったのか判らないままに、やっと動いた名古屋止まりのこだま号の座席で、大変な震災が関西地方を襲ったことを知ってショックでした。大震災が関西を襲うということは、当時の関東の住人にとっては予想外のことだったのです。
ご存じのように、もう何十年も前から、関東大震災は明日にも起こる、と言われ続けてきましたから、私たち関東の人間は、次に瓦礫になるのは自分たちの街だと覚悟を決めていました。
また日本列島の地盤の構造から、関西の方が関東よりも地震に強いと言われており、確か小松左京さんもSF小説『日本沈没』の中でそんなことを書かれていたと思います。『日本沈没』の中では、地震に強いと油断していた関西地方に先ず大震災が起こるのですが、まさにそれと同じことが現実に起きました。本当にショックで、とても他人事とは思えませんでした。
燃え続ける神戸の街や、倒壊するビルや、寸断された高速道路に取り残されたバスの映像など連日のようにテレビに映し出されていたし、1週間以上も神戸大学の知り合いの女医さんとの連絡がつかないという情報が伝わってきたりして、東京にいても毎日落ち着かない日々を送っていたことを思い出します。
あの時最後まで火の手が上がり続けていた長田の街を先日訪れましたが、区画もきれいに整備されていて、少なくとも外来者の目には震災の爪跡は完全に消え去ったように見えました。しかし住民の方々の心には、あの日失ったものへの愛惜はおそらくずっと消えることはないのだろうなあと思うと、やはり辛くて切なかったです。
震災を境に、以前よりもずっと洗練された街に生まれ変わった神戸を歩いて、いろいろなことが思われました。