東急世田谷線

 東急世田谷線は、京王線の下高井戸から東急田園都市線の三軒茶屋を結ぶ鉄道で、今でこそ都内ではかなりローカルな路線だが、昔は東京西部でも有数の路面電車だった。渋谷の道玄坂から二子玉川(通称ニコタマ)を結ぶ路線が、途中の三軒茶屋で下高井戸行きに分かれていたが、交通事情の悪化により、渋谷〜二子玉川間の本線は地下に潜って地下鉄新玉川線となり(後にさらに中央林間まで延びて東急田園都市線と改名)、世田谷線だけが専用軌道を通って細々と下高井戸〜三軒茶屋間を地上運行しているわけである。
 細々ではあるが、三軒茶屋を出た電車は、環状7号線を踏み切りで突っ切り、松陰神社前から上町を抜け、私の家の菩提寺である豪徳寺付近で小田急線と立体交差して、下高井戸まで全長5キロを走り抜ける。この路線の上町駅の近くに、私が小児科医として最後の勤務をした都立母子保健院があった。

 東急世田谷線では1999年から2001年にかけて、ご覧のようにカラフルな車両(300系)を導入したが、それ以前は、もちろん私が都立母子保健院勤務中も、古色蒼然たる旧式車両で運行されていた。この電車に乗ると、床は木造でニスの匂いがしたものだった。

 この車両には私にとっては辛い思い出がある。まだ都立母子保健院勤務の小児科医だった頃の話だ。未熟児・新生児病棟の主任だった私は、何の前触れもなしに重症未熟児が搬送されてくるたびに、正規の当直でもないのに2日3日連続泊り込みなどという凄まじい勤務を続けていた。未熟児・新生児病棟の常勤医師はわずか3名、あと都内の幾つかの大学病院から2名前後の研修医が半年交代くらいで勤務していたが、常勤でしかも主任であった私は、重症未熟児の入院でもあれば週3日4日の病院泊り込みは日常茶飯事だった。
 人数に余裕のある大学の医局やセンター基幹病院などは冷淡なもので、応援1人出してもくれない。院長も医長も我が身大事で、事務部や上層部に掛け合ってもくれない。しかも病院の事務部などは、患者(未熟児)からの求めがあるのだから、医師が“勝手に”臨時に泊り込むのは医師法の応召義務であるとして、時間外勤務手当てさえ出さなかったのである!いつ果てるともない重労働の連続…。ある土曜日の昼下がり、この世田谷線の車内で私の心の中で張りつめていた何かが切れた。

 就任後数ヶ月たった初夏の頃、たまたま重症未熟児が3人になった。重症未熟児では肺が未成熟なため、人工呼吸器を取り付けて呼吸を外部からコントロールしてあげなければいけない。しかし都立母子保健院には人工呼吸器が2台しか無かった。
 私はすぐに愛育病院の先輩のS先生に電話して人工呼吸器を貸して貰うことにした。自家用車で愛育病院に走り、機械一式を借りて来た。よほど私が思い詰めた顔をしていたのだろう、S先生は心配そうな表情で私の肩を無言で叩いた。S先生の励ましを感じて私は思わず涙がこぼれそうになったが、そのまま交通渋滞の中を母子保健院に帰ってきた。

 しかし今度は愛育病院でも人工呼吸器が必要になった。私は借りていた機械を返すと同時に、都立八王子小児病院におられた先輩のN先生に電話して、そちらの人工呼吸器を借りることができた。中央高速を降りてから八王子市内までの一般道がすごく渋滞していたのを覚えている。
 だが3台の人工呼吸器をフル稼働して、病院に連泊して治療に当たったにもかかわらず、未熟児の1人は残念ながら亡くなってしまった。土曜の午後、不要になった人工呼吸器をお返しするために電車で八王子小児病院へと向かう。病院最寄りの上町駅から小田急線と交わる山下駅まで、梱包した重たい人工呼吸器を抱えて東急世田谷線に乗った。混雑していたので降車扉まで行けず、運転士さんに頼んで車両前部の乗車口から降ろして貰った。

 
何で俺がこんなことをしなければいけないんだ?
私の心の中で何かが切れた。平気な顔で帰宅していった院長も医長も、応援も寄越さない大学医局やセンター基幹病院の医師たちも、自分の地位ばかり気にしている病院事務や東京都の衛生行政担当者も、すべての人間をその瞬間から信用できなくなった。
 さらに翌日からは気力が奮い立たなくなった。自分は経験を積んだ医者である、未熟児やその親たちが私の手腕を待っている、いくらそう思っても気力が湧かなくなった。惰性では相応の仕事は出来るのだが、根本のところで情熱に火がつかなくなったのだ。
 自分が専門職であればあるほど、この状況がどれほど辛いものであるか、なかなか判ってはくれまい。後に考えたが、これが“燃え尽き症候群”なのであろう。ある日突然、自分の心の中で何かが切れる、そしてその後どんなに頑張ろうと思っても二度と元に戻らない。操縦索の切れた飛行機は一旦地上に戻らなければ修理できないのと同じことである。
 それから何とか1年ほど頑張ってみたが、結局のところ私は7年間の小児科医生活にピリオドを打って病理に“転進”した。定年まで小児科医でいられたら幸せだったろうなという気持ちは今でも少しはある。しかしそれが出来なくなるのが燃え尽き症候群なのだ。
 燃え尽きただけならまだよい。さらに重症のケースだとそのまま鬱病ということになり、自ら生命を絶つことだってありうる。(別の小児病院のN先生はこれで亡くなった。)行政はもちろん、職場の管理者や上司は部下が燃え尽きないように常に心を配る必要があると強調したい。燃え尽き始めてから手を打とうと思っても、その時はもう遅いのである。

 東急世田谷線は今では全部新しい車両になっているから、あの頃の辛さを思い出すことも少なくなったが、やはり何かの折にふと脳裏をよぎることがある。そう言えば、あの時に人工呼吸器の貸し出しの労を取って下さったS先生もN先生も、その後何年もしないうちに未熟児・新生児の現場を去られた。
 こうやって現場の医師個人にすべての犠牲を強いておいて、その医師が心身ともに疲れ果てて職場を退くに至る経緯を“立ち去り型サボタージュ”と呼ぶ人間がいることを、私は最近になって初めて知った。小松秀樹氏の著書『医療崩壊−立ち去り型サボタージュとは何か』の中で使われた言葉らしく、医療現場の荒廃をセンセーショナルに訴える意味では効果的かも知れないが、実際に自分がそれに相当することをやった身としては、行政や上層部自らの“不作為のサボタージュ”を棚に上げておいて、こういう言い方をされることにかなり抵抗がある。

                 帰らなくっちゃ