摩天楼・今昔

 摩天楼、天を摩する楼閣……。私たちの世代は子供の頃からその名前を知っていた。しかしそれはアメリカの都市のことだと思っていたし、一般庶民にとって海外旅行などは想像もつかないような贅沢だった時代に、自分がそんな「摩天楼」を実際に見ることなど絶対にないと思っていた。
 ニューヨークにはエンパイア・ステート・ビルディング(Empire State Building)という高さ443m、102階建ての世界一のビルがある、ということはほとんどの日本人が知っていた。しかし日本は地震国だからアメリカのような摩天楼はとても建てられないとも言われていたものだった。
 私の世代の日本人にとっては1931年に建造されたエンパイア・ステート・ビルが最も有名であり、1970年に世界貿易センタービルが世界一の座を奪ったことは、それほど意識に上らなかったと思う。なぜならば1968年に東京にも高さ147m、地上36階の霞が関ビルが完成して、高さ333mの東京タワーには及ばないものの、日本でもいよいよ超高層ビルの時代が到来したからでもあろう。(世界貿易センタービルは、むしろ2001年にテロリストに破壊された時の映像の方が衝撃的だった。)
 その後、1970年代から現在にかけて、日本中で200mを遥かに越える高さを誇る超高層ビルがニョキニョキと立ち並ぶようになり、いちいち数え上げるのも面倒くさいので止めておく。特に東京の新宿西口は東京都庁をはじめとする超高層ビルが密集して、まるで未来都市さながらの偉観を呈するようになった。


 未来都市と言えば、私たちの少年時代から見れば確かに未来都市には違いない。街並みを足元に見下ろすこんな空中楼閣の光景を、一生のうちに自分の眼で見られるなんて、私たちの世代の誰が想像しただろうか。
 私たちが少年だった昭和30年代、東京で一番高い場所はデパートの屋上だった。当時のデパートはほとんどが7階から8階建てで、天気の良い日にその屋上に登れば、東京都内がほとんど見渡せたものだった。ちなみに言えばデパートの6階が玩具売場なのはほぼ全店共通、階の上下への移動はエレベーターが主力で、やがて上りのエスカレーターが登場、それからかなり遅れて下りのエスカレーターも装備されるようになったと記憶している。

 ここで岩波写真文庫の復刻版から、1952年頃の新宿の写真をスキャンしてお見せしたい。「東京案内1952」という題名だから、撮影は1950年から1951年前後であろう。まだ超高層ビルどころか、戦後の焼け跡からやっと復興したばかりの東京の息吹を感じる写真である。これらに写っている世界のどこか片隅には、まだ新生児・乳児だった私自身がいるかと思うと何か感慨深い。

 これは新宿駅東口の駅舎


 新宿の目抜き通りとあるが、新宿駅東口から東へ伸びる新宿通りであろうか
。現在のスタジオアルタがあるあたりだと思われる。
 では超高層ビル街になった新宿西口はと言うと、当時は実は淀橋浄水場と呼ばれる下水道施設で、広大な敷地に沈殿池がずっと続いていた。東京都内の小学生なら在学中に必ず一度は浄水場見学に来たはずである。1960年に始まった新宿副都心計画により浄水場は1965年に閉鎖されたのであるが、まさかそこが40年後には摩天楼になっているとは夢にも思わなかった。


 最後の極めつけがこの甲州街道の写真
である。今では甲州街道を八王子から高尾のあたりまで行ったって、こんな鄙びた光景にはお目にかかれるものではない。しかもこれはおそらく23区内である。
 そう言えば、1961年に封切られた東宝の特撮映画「モスラ」を先日ケーブルテレビで放映していたが、その中でモスラが甲州街道を杉並から渋谷方面へ向かう、という場面があった。モスラが押し潰す東京の街並みは農家が点在する畑と送電線だけ……。まさにこの写真そのものなのである。当時は怪獣がブチ壊す街並みのミニチュアも、現在に比べれば簡単で、スタッフも助かっただろう。

        帰らなくっちゃ