戦後昭和の原風景

 この写真
は海上から眺めた室蘭製鉄所です。巨大な溶鉱炉を中心に何本もの煙突が立ち並んで煙を上げています。明治40年に日本製鋼所が建設されて以来、製鉄の町として発展を続け、北海道最大の工業都市と言われたこともある室蘭ですが、鉄鋼業の衰退と共に現在ではずいぶん人口も減って寂しい印象がありました。製鉄所はその敷地の外周をタクシーで回るだけで20分近くもかかるほど広大なものだけに、そこに人通りが少ないとなると本当に寂しかったです。
 昭和20年には空襲と艦砲射撃で破壊された室蘭製鉄所でしたが、戦後はいちはやく復興して、新生日本の重工業躍進の一翼を担います。私たちの世代は小学校の社会科の授業で、製鉄の立地条件として最良なのは、
@海外から鉄鉱石を輸入できる巨大な港湾施設を持つこと、
A背後に炭坑地帯があることである、
と習ったものでした。そして日本でこの2つの条件を満たすのが、ここ室蘭と北九州だったのです。写真左手の方は大型の鉄鋼輸送船が着岸できる港になっており、さらの室蘭から少し内陸に入ったところが日本有数の夕張炭田地帯でした。
 私も小学校時代は室蘭や八幡の巨大な溶鉱炉の写真を見ながら、日本は戦争に負けたけれども、これからは工業国として発展していくんだという誇りを感じたものです。それは戦前の軍国少年たちが帝国海軍の連合艦隊の絵を眺めた時の高揚感と同じものだったかも知れません。


 そしてこの写真
はかつて北九州の製鉄業を支えた筑豊炭田の中心地の一つ、飯塚市の現在の様子です。昭和40年代の地図には、北九州市と福岡市の中間あたり、遠賀川流域の直方市とか飯塚市の近辺には多数の炭坑の記号が描かれていましたが、現在ではそれらの炭坑もすべて閉鎖されてしまいました。
 しかし飯塚市からは上の写真のような不思議な山が見えます。まるで大和三山か巨大古墳のようなこの山、いったい何だと思いますか。実はこれがボタ山なのだそうです。
 石炭採掘の際に、一緒に掘り出された不要な岩石や質の悪い石炭などを「ボタ」といいますが、それらを捨てていくうちに円錐形に堆積して出来た人工の山がボタ山です。いつの間にかこのボタ山も山頂まで植物の緑で覆われるようになりましたが、閉山後すでにそれだけの長い年月が経過したことを示しています。

 溶鉱炉といい、炭坑のボタ山といい、これらは私の世代が子供だった頃の日本を支えてくれた、いわば戦後日本の原風景と言って良いでしょう。ここで生産された鋼鉄が、戦前の軍艦作りの技術と結び付いて世界最大の造船業を起こし、日本の奇跡の戦後復興の原動力となったことは周知の事実です。昭和32年には日本の進水量は世界一となり、昭和41年には出光丸(20万トン)、昭和46年には日石丸(37万トン)、昭和48年にはグロブティック・トウキョウ(48万トン)と、いずれも当時世界最大のタンカーを建造してきました。
 しかし皮肉なことに、これらのタンカーが運んでくる石油が日本の産業構造を一変させ、石炭から石油へのエネルギー転換で各地の炭坑は相次いで閉山に追い込まれ、鉄鋼も非鉄金属やプラスチックにその座を奪われるに及んで、室蘭や北九州などの製鉄業にも翳りが見えてきたのでした。今ではかつての活気は見る影も失われてしまった製鉄所と炭坑ではありますが、戦後の日本を廃墟から立ち上げて、私たちの世代の成長を支えてくれた歴史を忘れてはならないと思います。

 上の2枚の写真、室蘭と筑豊と日本列島の南北にわたっていますが、実は私はある事情があってこの2ヶ所を同じ週末のうちに相次いで訪れたのです。別々の機会に訪れたのであれば何も感じずに済んでしまったに違いありませんが、日本の代表的な製鉄所と炭田地帯の現況に同時に触れることが出来たのは幸運でした。

          帰らなくっちゃ