時差

 長期休暇を利用して英国にホームステイの短期留学していた私の教え子が、帰国に先立ってロンドンからメールをくれました。
『ごぶさたしましたが、明後日イギリスから帰国します』
木曜日の夜でしたから、英国で発信したのは同じ日の午前中、ということは土曜日に帰って来るんだなと思って、土曜日はそれとなく英国航空の到着予定時刻などをネットで調べたりしていましたが…、
『ただいま成田空港に到着しました』
という帰国後の初メールがきたのは日曜のお昼前でした。

 人はやはり自分が生活している現地時間に縛られているんだなと感じて可笑しかったですね。世界中の情報をリアルタイムで伝えあう商社や軍隊やエアラインなどでは、こういう時のルールがあるんでしょうが、普通の人間にとっては自分の今いる場所が唯一の時間帯になります。
 だから日本にいる私にとっては、金曜日にイギリスを発って土曜日に日本に着くんだなと思ってしまうし、向こうにいる教え子にとっては土曜日にイギリスを発つつもりだから、そうメールに書いてくれたんでしょう。

 思えば地球上にはあらゆる時間帯が存在している、自転する地球は常にどこかの面が太陽に向いて昼になり、反対側は夜になるから当たり前なんですけど…(笑)。この同時に存在する多数の時間帯の間を数時間から十数時間(1日以内)で移動できるジェット旅客機のせいで、我々人間は時差を意識するようになりました。海外旅行後の時差ボケを英語でjet lagとも言います。

 まあ、自分や知り合いがジェット機で外国を往来でもしない限りは、時差なんて別にどうってことはありません。1941年の日本人だって真珠湾攻撃のニュースを聞いたのは12月8日の月曜日の朝、しかしアメリカ艦隊に奇襲攻撃を加えたのは7日の日曜日早朝であることも当然知っていたでしょう。
 日付変更線の向こう側のハワイは日本よりも1日前に戻りますが、あの真珠湾攻撃を描いた20世紀フォックスの映画『トラトラトラ!』(1970年)に日本公開版限定で、今は亡き渥美清さんが空母赤城の烹炊所で日付変更線の講釈を垂れる懐かしい場面がありました。この場面は元のアメリカのバージョンには無いのですが、「昨日の敵に今日の弾丸が当たるのか」と切り返された渥美清さんが慌てて味噌汁を熱いまま味見して火傷するシーンは面白かった。

 私が以前ちょっとムッとしたのは、カミさんがヨーロッパへ演奏旅行に行って、午後のお茶か何かの時刻に、ちょっと亭主とお話しようと思ったのか、わざわざ国際電話を掛けてきたこと、カミさんもまだ若かったんですね、一緒に行っている友だちとキャアキャア言いながら電話を掛けてきたんですが、さて向こうの午後のお茶の時刻ってこっちでは何時でしょうか(笑)。
 まあ、私の声を聞きたかったんだなと思って許しますが、ちょうど寝入りばなを電話のベルで叩き起こされた私は、その晩はもうなかなか寝つくことが出来ませんでした(泣)。

 この時差を巧みに使った小説があります。ジェット旅客機はおろか飛行機さえもまだ発明されていなかった1872年にジュール・ベルヌが書いた『八十日間世界一周』という作品です。英国紳士のフォッグ氏が、80日間で世界一周できるかどうか友人と賭けをして、ロンドンを起点にエジプト、インド、中国、開国間もない日本からアメリカと旅をして、再びロンドンに戻ってくる、順調に80日間で英国に戻れるはずだったが、あるトラブルから英国入りが1日遅れてしまう、フォッグ氏はたった1日遅れで友人との賭けに負けてしまった…とすっかり落胆していたところ(…最後のどんでん返しのオチが分かりますか)、実は太平洋を東向きに横断した時に日付変更線を越えて1日前に戻っていた、だからロンドンではまだ出発から80日しか経っておらず、したがってフォッグ氏は辛うじて賭けに勝つのです。(本当はアメリカ横断中に1回でも新聞の日付を見れば気付きそうなものですが…笑)

 このトリックは実に見事ですね。私はこの小説は小学生の時に児童向けの本で読み、初めて日付変更線のことなど知って驚いたものですが、10年ほど前に完訳本を読んで、このオチを思い出すことができず、再びジュール・ベルヌにしてやられました(笑)。
 この小説は1956年にロマンチックな主題曲で映画化されていますが、その時の主人公たちが横浜からアメリカに渡る帆船として使われたのが、初代海王丸(運輸省
現国土交通省の練習帆船)でした。

 まあ、この主人公たちのように80日間で1日増えたり減ったりする分には人間の身体に大した影響はありませんが、現代の我々のように亜音速のジェット旅客機で大陸間を飛ぶ時は、わずか半日の間に昼夜が逆転するという過酷な状況になります。つまり体内時計はまだ深夜で眠いのに真昼の時間帯で生活する、あるいは活気モリモリ溢れる状態なのにもう寝なければならない、ということで、これがいわゆる時差ボケです。

 人間の脳の奥には松果体という小さな器官があり、ここから分泌されるホルモンで全身の体内時計が刻まれる、メラトニンというホルモンですが、音速輸送機で地球を半周して戦争しなければならない海兵隊員の体内時計を調節する必要から、アメリカでずいぶん研究されたそうです。最近では睡眠障害の治療とか、海外旅行の時差ボケ予防のために、一般にも販売されているようですが、そういう薬を使わずに時差ボケを予防しようと思ったら、ジェット旅客機に乗る前から多少意識して睡眠時刻をずらす努力が必要です。

 日本からヨーロッパへ向かう時や、アメリカから日本へ帰る時のように、西向きに旅行する時の時差は修正しやすい。太陽は見かけ上は東から西へ動くので、太陽と同じ動きをするから昼間の時間が長くなる、だから機内で頑張って眠らずに起きていれば、目的地で過ごす最初の夜を眠い状態で迎えることができる。
 ところが東向きの旅行ではそうはいかない、例えばヨーロッパから日本へ帰る時は、日本は現在地よりも8時間先の時間帯になっている、そして太陽と逆に動くことになるから昼間が短くなって、まだ眠くないのに眠るべき時間になってしまう、これはなかなか修正が難しい。強いて言えば、帰国の飛行機に乗る1日くらい前から日本の時間を意識して、まだ陽の高いうちから眠るクセをつけておかなければいけないが、せっかくヨーロッパまで来ているのにそんな為に昼間の時間を使ってしまうのはもったいない。まさにヨーロッパ旅行は日本人観光客にとって、行きはよいよい帰りは恐い…ということになりますね。


         帰らなくっちゃ