東京古墳街道

 先日、別のコーナーに鎌倉市で古墳時代の墳墓からご先祖様の骨が見つかったという記事を書きましたが、この“古墳”という言葉はひとつの歴史のロマンでもありますね。古墳というのは大体3世紀後半(邪馬台国の頃)から7世紀くらいにかけて作られた大王(天皇)や豪族の大きな墳墓のことですが、そういう古代の人々は「オラの国の長
(おさ)が亡くなったから“古墳”でも造るべ」とは言わなかったでしょう。古墳とはあくまで古代の大きな墳墓の意味、後世の我々が勝手に古墳と呼んでいるだけです。

 ところで古代の日本史は北九州から畿内や出雲が主要舞台ですから、有名な古墳は西日本に多いですね。日本史の教科書に必ず登場して、日本最大の古墳であると教わっていた仁徳天皇陵、最近はこれを仁徳天皇陵と言わないこと御存知でしたか?
 何故かというと、埋葬されているのが仁徳天皇だとすると年代が合わない可能性が出てきたので、今はこれを大仙古墳と呼ぶんだそうです。日本では天皇家のお墓だと副葬品などの学術発掘調査を行なわないことが多いので、古墳の科学的な検証が不十分になりがちなのですが、確かに天皇家の墳墓を掘り返すのも失礼だけれど、何十年にもわたって間違った墓碑銘で呼んでいたのはもっと失礼なことではなかろうかと思いますね。

 この大仙古墳(いわゆる仁徳天皇陵)、天気が良ければ博多空港を飛び立った飛行機の左側の窓から見下ろすことができます。教科書に写真が載っていたとおりの形の前方後円墳を初めて見たときは興奮しましたね、古墳にコーフン(シラ〜)。
 大仙古墳に限らず、記紀や出雲風土記など日本神話の舞台になった地方には立派な古墳群が多いのは当然ですが、実は東京都区内にもけっこう立派な古墳があるんですね。上の写真は出雲地方の古墳ですが、これに匹敵するくらいの規模の古墳が、東京の水辺の記事で紹介した世田谷区の等々力渓谷付近に点在しています。

 左の写真は野毛大塚古墳、全長82メートルの前方後円墳で5世紀前半頃の墳墓だそうです。付近は公園として整備されており、畏れ多くも古墳の頂上に昇ることもできますが、右の写真の御岳山古墳は立ち入りできませんでした。こちらは5世紀後半の墳墓だそうで、付近には50基以上の古墳が点在しているそうです。

 目黒通りに隣接する住宅地の真ん中にこんもり茂った木立が御岳山古墳ですが、はるか南方に横浜のランドマークタワーを望むこの現代東京の一角に、歴史書にはほとんど記録を留めていない古代の遺跡が脈々と息づいている、これは本当に不思議な空間でした。この墳墓群を築いた大勢の人々の身体を構成していた細胞の中には、私が持っているのとまったく同じ遺伝子が幾つか活動していたはずです。ここはまさに時の流れを跳躍する空間なのです。

         帰らなくっちゃ