東名高速道路
私が浜松に勤務していた約3年間、1ヶ月に2〜3回は東京へ行く用事があり、その半数は新幹線を使いましたが、あとの半数は東名高速道路を車で飛ばしたものでした。大体、東京―浜松間が約250キロメートルですから、所要時間は約2時間半ということになりますが、渋滞でない時の高速道路は周囲の車が時速120キロくらいで流れていますから、自分だけ法定速度を固守していると却って危ないのです。だからインターから入ってから高速道路を降りるまでの時間は2時間ちょっとということが多かったですね。
絶対に俺は法定速度を守るのだ、と言わんばかりに、頑なに80〜100キロの時速を保って運転している車もいますが、これがどれほど周囲に迷惑と危険を及ぼしているか、考えてみれば判るでしょう。
別に法律を守るな、というつもりはないのですが、法定速度厳守の車の後ろには、流れに乗った車が次々に追いついて来ては、車線変更をして追い越して行く。追い越し車線の方も、さらに速い速度で車が流れていますから、不要な車線変更でこの流れを乱すのはかなり危険を増加させるのです。
私の場合、ほとんどが野暮用で往復するので同乗者はいないことの方が多かったです。2時間以上も独りで運転していると眠気が襲ってきますが、そんな時は景気の良い歌を歌いました。誰も聞いていないから大声で何を歌っても恥ずかしいこともなく、一番効果的なのは軍歌でしたね。中でも「加藤隼戦闘隊」なんかは最高です。
エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
なんて、愛車のエンジンの音をバックに歌っていると目がパッチリ冴えてきました。
あと「ラバウル航空隊」の2番も気に入っていました。(ラバウル小唄とは違います。)
数をば恃んで 寄せ来るただ中
必ず勝つぞと 飛び込む時は
胸に挿したる 基地の花も
にっこり笑う ラバウル航空隊
という歌詞です。浜松勤務では遠州総合病院の未熟児・新生児医療に全力を傾けていましたが、浜松には未熟児医療で有名な聖隷浜松病院があり、我が病院の小児科は大規模な聖隷病院に対して良い意味でのライバル意識を持って、治療成績を競っていましたから、この歌詞は当時の私の心情によく合っていたようです。
東京―浜松間で車を走らせている時に、最も目立つランドマークはもちろん富士山です。東京を出たばかりの時は、かなり遠くに見えていた富士山が、いつの間にか真っ正面にグーンと迫ってくる。今さらながら高速道路を走る自動車の速さを実感する一瞬です。
わき見運転しながら富士山を鑑賞していると大変危険ですから、途中のサービスエリアで一休み。私は富士川サービスエリア↓がお気に入りでした。
ところで、私は東名高速道路で大事故の一歩手前まで行ったことがあります。忘れもしない、30歳の誕生日を1ヶ月後に控えた7月のことでした。場所は東名下り線92キロポスト付近、ちょうど道が曲がりくねった箱根の山中を抜けて、緩やかな下り勾配の直線になるあたり。よく東名高速をご利用になる人ならお判りでしょうが、急に視界が開けて、自分でも知らない間に速度が出過ぎてしまう、魔のポイントの一つです。
ここは危ないと思うから、私は意識してアクセルを緩めていましたが、それでも時速120キロ近くは出ていたでしょうか。当時の車は時速100キロを越すと、キンコン、キンコンと警告音が出るように義務付けられていました。
そこへいきなり隣りの追い越し車線から1台のバンが私の車の鼻先に割り込んできたのです。もっともそのバンも後方から時速150キロ以上で追い上げてきた黒いスポーツカーに煽られて、慌てて走行車線に逃げ込んできたのですが、低速走行中に割り込まれても危険を感じるほどの近距離に割り込まれたから私も驚きました。
高速道路での走行中、急ブレーキは禁物です。私は咄嗟に左側の路肩に車を寄せて前のバンを避けようとしましたが、やはりハンドル操作が急だったのでしょう。私の車は突然スピンしはじめました。よくF1レースなどでレーシングカーがコマのようにグルグル回転するヤツです。
目の前を景色が横に流れていくのを眺めて、ああ、これは死ぬなあ、と思いながら、不思議に恐怖は感じませんでした。ブレーキを踏んだら最後だ、タイヤが再び地面を捉えた瞬間、吹っ飛ぶかも知れない。そんなことを考えながら、足をアクセルから離してハンドルだけをしっかり握っていたことだけを覚えています。(本当は車が制御できなくなったら、運を天に任せて停止するまでブレーキを踏み続けるのが正解だそうです。このホームページの掲示板にお便り下さったKenさんという車好きの方から教えて頂きました。でも良い子の皆さんはこんな危ない目は未然に防ぐ運転をして下さいね。)
幸いにしてスピンが止まった時、車はちょうど反対方向を指していましたから、そのまま速度を落として路肩に寄せましたが、やはり動転していたのでしょう、右側のヘッドライトをポストにぶっつけて破損してしまいました。しかしそのくらいで済んで、本当に幸運でした。身体にはかすり傷ひとつ無かったのです。
割り込んできたバンを運転していた人の良さそうな兄チャンが、ルームミラーで私の事故を見て、300メートルほど先に車を停めて救援に来てくれました。思わず「バカヤロー」と叫びましたが、本当に悪いのは150キロ以上で追い上げて煽り行為をした黒いスポーツカーの運転手なのです。そいつはさっさと逃げてしまいました。
すぐに非常電話で警官に来て貰って、車を元の向きに直してから、沼津インターチェンジで事情聴取を受けましたが、その兄チャンが警官に怒られそうになったので、本当に悪いのはその人ではないと代わりに弁護してあげました。
翌日、右のヘッドライトが割れた私の車を見て、病院の看護婦さんたちが「先生、スピード出し過ぎるからだにー(浜松弁)」と言って笑いましたが、私の生命は危うく30歳になる直前にあえなく東名高速のツユと消えるところだったのです。
そう言えば、その日は事故前から何だか不思議な気分でした。東名高速に乗る前から何となく胸騒ぎがして、厚木のあたりに差しかかった時も、前方の山並みにかかる夕暮れの雲が不吉に見えました。色も形も妙に気にかかるのです。それまでそんな気分で運転したことはなかったので、一体どうしたのだろうと思っていたら、その約30分後の事故でした。
よく昔から「虫の報せ」とか言いますが、そういう予知能力の一種なのでしょうか。船乗りたちはネズミがいなくなると船が沈むと言って恐れたものですが、船に乗っているネズミたちには確かにそういう予知能力があるようです。
そんなのは迷信だ、ネズミたちが船を降りるのは、船の老朽化とか、暴風前の気圧の変化を感じて逃げ出すのだ、などと“科学的”に分析する人もいますが、太平洋戦争中の元潜水艦長だった板倉光馬さんの本に、「俺の艦にネズミがいなくなった」と嘆いていた同僚の潜水艦が未帰還になったことが書かれており、まさかネズミが米軍の対潜作戦までを感じたということはないでしょう。
とにかく私はあの事故以来、人間にも微弱ながらも未来予知能力があると信じるようになりました。少なくとも私は自分が死ぬ日には、きっと何らかの前兆を感じるのではないかと、別に楽しみにはしていませんが、科学者として事実を確かめようと思っています。
それはともかく、皆さん、車の運転には十分気をつけて下さい。そして何か変だ、いつもと違う、と感じるようなことがあったら、出来るだけ車の運転は避けた方が良いかも知れません。