日本海の夕陽(鶴岡市)
医学部へ進学して1年目の夏休み、解剖実習のペアだった友人とウマがあって、東北地方を旅行することになった。約10日間かけての弥次喜多道中で、盛岡を起点に宮古・奥入瀬・下北・青森・弘前・秋田・男鹿と反時計回りに東北地方を一周し、最後の宿が山形県鶴岡市だった。日中は羽黒山を回って、三瀬海岸近くのユースホステルに着いた頃には陽が傾きかけていたが、その日は好天に恵まれて綺麗な日没が期待できそうだったので、我々も他の大勢の宿泊者たちに混じって海岸へ出てみた。私のような太平洋側に育った人間にとっては、海の彼方の水平線に太陽が沈む光景は珍しかったせいもある。
その友人は写真部に所属していて、一眼レフの立派なカメラを携行しており、もちろん日没の情景を狙ってカメラを抱えていた。私も手軽な、いわゆるバカチョンカメラで同じ夕焼けを撮影しようと試みたが、いかんせん当時の小型カメラの性能では、このような白けた写真しか撮れなかった↑。私がその後カメラに興味を持つようになったのは、この友人の影響が大きいかも知れない。
だが写真の腕前というのは必ずしも所有するカメラの性能にのみ依存するわけではないことも、この友人に思い知らされた。自分のバカチョンカメラをこの友人に渡して私の写真を撮って貰うと、私が同じカメラで彼を撮ったものよりも、何倍も見栄えのする構図が得られるのである。ファインダーのフレームの使い方やシャッターのタイミングの取り方がまったく違うらしい。私の写真修行の第一歩であった。
その友人は現在、都内のある病院で内科部長をしているらしい。今はお互いに忙しくてほとんど会えないが、少し余裕が出来たらまたこの友人と撮影旅行に出かけてみたいものである。
少し時間が過ぎて夕映えが鮮やかになってきても、相変わらず私のバカチョンカメラではこれが精一杯であった↑。しかしこの海の夕焼けを眺めていた時、私の脳裏にはある情景が重なっていた。この旅日記の鵜原の項でも少し引用した阿川弘之氏の小説「雲の墓標」の一節である。
雲こそ吾が墓標
落暉よ碑銘をかざれ
特攻戦死した親友が主人公に宛てた遺書の冒頭だが、主人公は最後の場面で、千葉県外房の鵜原海岸で親友を偲んでいる。
天際の、海と雲とが合するところに、潮を墓にして、雲に碑銘を誌して、静かに眠っておられるでしょう。
と想いを馳せる太平洋には、夕陽が水平線の雲を染める景色が見られる場所は限られてくる。しかし日本海の海岸で「雲の墓標」のイメージにピッタリ一致する光景に巡り合えて、私は感無量であった。
先の大戦で亡くなられた方々は特攻隊員たちばかりではない。この夕焼けの彼方にも、かつての大日本帝国の大陸経営の野望の下に亡くなられた多くの軍人・軍属・民間人たちが眠っているのだ。
実はこの日の日中、鶴岡駅から羽黒山を回るために、駅前に大きな荷物を預けた。いかに男の気ままな旅とはいえ、10日間も旅路にあれば着替えやその他を含めて携行品は大型リュック一杯になる。こんな荷物を担いで観光地や寺社巡りなど、いくら若くて体力があると言ってもなかなか大変だ。
現在なら大体どこの土地でもコインロッカーが備え付けられているが、当時は東京駅のような大きな駅でさえもそんな物は珍しかった。その代わり、旅行者が集まるような駅や観光地には、必ずと言っていいほど荷物一時預かり所が何軒かあった。別に預かり専門の店舗というわけではなく、地元の土産物店や食堂などが空いているスペースを利用して、1日50円くらいで旅行者の荷物を預かってくれていたのだ。
私たちも羽黒山へ登る前に、鶴岡駅前の預かり所にリュックを預けに行った。そこも食堂かお店の裏の一角を利用した荷物預かり所になっていて、20畳敷きほどの広間に、我々のような若い旅行者たちのリュックや手提げバッグなどが所狭しと並んでおり、70歳前くらいのお婆さんが番をしてくれていた。ふと見ると、その座敷のような広間の一角に仏壇があって、そこに水兵の帽子を被った遺影が飾られている。まだ少年の面影の残るあどけない顔立ちであった。私はハッと胸を衝かれた。おそらく年少で海軍に志願して二十歳前に戦死された方に違いない。
荷物の番をしてくれていたお婆さんはその水兵の母親だったかも知れない。平和な時代に生まれ育った私たちのような若者が、自由気ままに旅をする姿を、どんな想いで見つめておられたのだろうか。その日の夕焼けを眺めながら、私は駅前の遺影の幼い水兵を思い浮かべた。あれからもう何十年も経つが、私はあの時に感じた衝撃を忘れることはない。