無名のスカウト戦士

 横浜市青葉区に、東京都町田市にまで跨がる100ヘクタールもの広大で自然豊かな公園地帯 “こどもの国”という総合児童厚生施設があります。戦前から戦中にかけては旧日本陸軍最大の弾薬製造貯蔵施設だった陸軍東京兵器補給廠 田奈部隊填薬所の跡地、戦後は米軍の田奈弾薬庫になっていた場所で、返還後は1959年の皇太子様御成婚(平成天皇皇后・現上皇御夫妻)と、1960年の浩宮様御生誕(令和の今上陛下)を記念して、1965年5月5日に開園したものです。

 私が中学2年生の時でしたが“こども時代”に訪れたことはなく、定年退職後にこちらの方面での仕事の折に初めて行ってみました。ここには無名のスカウト戦士の碑があると聞いていたからです。私は幼少期に特にボーイスカウト活動をしていたわけではありませんが、2011年の東日本大震災以降、ボーイスカウトやガールスカウトの出身者たちと一緒に、福島県相馬市を中心とした国内の災害被災地を巡る支援活動をしているので、最近ではとても身近に感じるようになっているのですね。

 さて本当に広〜〜い園内で碑を探し当てるのは大変でしたが、そんな冒険を楽しむ余裕が私にはある、たぶん小学生時代にボーイスカウトに入団していたら面白くて活動にのめり込んでいたでしょう。こどもの国は最初に書いたように、旧陸軍の弾薬貯蔵施設だったから、弾薬庫の跡がたくさん並んでいるエリアがあります。そんなうちの一つ、弾薬庫の扉を埋める形でご覧のようなレリーフの碑が作られており、入口のところにはボーイスカウトの少年の銅像がレリーフに向かって敬礼しています。レリーフの絵は重傷を負って地面に横たわるアメリカ兵に銃剣を付けた日本兵が寄り添い、互いに三指の敬礼をしている図です。人差し指・中指・薬指の3本の指を立てる三指の礼はボーイスカウトの象徴だそうです。横に飾られている説明板には次のような文章が刻まれていました。

 
無名のスカウト戦士 (横江嘉純氏作)
この影像は、南洋のどこかの島であった激戦のあとの、まだなまなましい実話の記念像である。
 一人のアメリカ兵が重傷をおうて倒れていた。
 銃声もたえて静なとき、人の足音が近づいてくる。眼をさますとそこに一人の日本兵が剣付鉄砲を持ってつったっていた。アッ、やられる、と思いつめた彼は気がとおくなってしまった。
 暫くたって彼は気をとり返した。傍の砂の上に白い紙切れがあるのを何心なくポケットにいれた。
 まもなく担架で彼は野戦救護所にはこばれた。手術台にのせられたとき、彼はポケットの紙切れを思いだしドクターに渡した。それにはこう誌してあった。
 ぼくはきみを刺そうとしたとき、きみは三指の礼をした。ぼくもスカウトなのだ。スカウトは兄弟だ。戦斗力を失ったものは殺せぬ。傷には手当をしておいたよ。グッドラック。
 戦後この兵は父とつれだってアメリカのボーイスカウト本部を訪ねて右(上)の話を伝えた。スカウト精神を讃え、この運動のためにと献金していった。
 1952年、アメリカの本部から日本のボーイスカウト運動を視察にきたフィンネル氏が戦時中の美談としてこの実話を伝へてくれた。
 一人のアメリカ兵はいまに本名を明かさず
 一人の日本兵はおそらく戦死したであろう。
 無名のスカウト戦士、これこそ日本の武士道、スカウト精神の結晶である。


 縦書きの碑文を横書きに変える際に句読点など補いましたが、確かに美談ですね。似たような話で大岡昇平氏がフィリピンに従軍した経験に基づいて執筆された文章の一節を思い出しました。『野火』だったかも知れませんが記憶が曖昧です。草むらで休んでいると、何も知らない若いアメリカ兵もまた独り近くで立ち止まっている、確実に撃ち殺すことはできたのだが、アメリカの故郷で彼を待っている母親のことを考えると撃てなかったという内容でした。

 こどもの国の碑文は敵味方を越えたスカウトの情を讃えるものですが、いろいろ当時の情勢、また現下の情勢などを思い巡らしながら読んでみると、複雑な思いが湧いてきます。もしこの南の島で日米のスカウト戦士の立場が逆だったら、アメリカ兵は負傷した日本兵を見逃しただろうかとか、少なくとも日本側の一般兵士がこんな“武士道”の情けさえかけるようなアメリカ人と、何故あんなにまで必死に戦ったんだろうかとか…。

 おそらく玉砕寸前の絶望的な戦場でも、1人の敵兵に究極の憎しみを爆発させることのなかった無名スカウト戦士、また大岡昇平氏、当時の大日本帝国政府が躍起になって国民の対米英敵愾心を煽った理由はいったい何だったのか。大東亜共栄圏だの、国体護持だのといった当時の政府の妄想と言ってもいいんじゃないか。そんな政府に付き合わされてアメリカ人と戦わされた日本庶民の犠牲は何だったのか。

 現在の世界情勢をみると、ウクライナのスカウトは騎士道精神を発揮してロシア人のスカウトを戦場で見逃すだろうか。フェンシングやテニスの国際試合でさえ、ウクライナの選手がロシアやベラルーシの選手との握手を拒否していますが、当時の日本人は当面の敵であったアメリカ人に対して、そこまで激しい敵愾心を抱いていなかったわけです。

 政府(お上)に命じられれば、自らの暖かい心までを封じて、敵との差し違えも辞さずに戦う我が国民性を我々はもっと自覚する必要があります。無名スカウト戦士の実話を単なる美談として感動しているだけではいけません。戦争とはどんなに美辞麗句で取り繕っても、結局は人と人との殺し合いでしかないわけです。もしかしたら日本政府が再び“戦争”を決断せざるを得ない日が来るかも知れないし、国民はそれに抵抗できないかも知れない、仮にそんな最悪の日が来たとしても我々はどこの誰とも知れぬこの無名スカウト戦士の心情に最後まで寄り添い続けなければいけないと思います。


         帰らなくっちゃ