稚内(さいはての旅)
よく旅行記や観光案内書などで「さいはてのロマン」とか「さいはての旅情」というキャッチフレーズが目についた時期があったが、そもそも「さいはて」とは「最果て」、つまり「一番はずれた土地、辺境、地の果て」、という意味であって、実際にそこで生活している住民の方々には大変失礼な言葉なのではなかろうか。
しかし私たちのように日々都会の喧騒の中に暮らしている人間にとっては、「さいはて」という言葉にロマンや旅情を掻き立てられるのもまた事実であって、私もかつて日本最北端の街、稚内への想いが絶ちがたく、ある夏の終わりと真冬の2回、この地を旅したことがあった。
これは昭和53年頃の駅舎である。上野駅から青森へ、函館から札幌へ、そして札幌から稚内へと、夜行列車を3泊乗り継いで、この最北端の街へとやって来た。今にして思えばずいぶんと無茶な日程で、私も当時はやはり若かったのだろう。
稚内港を見下ろす小高い丘の上からの写真である↑。当然のことであるが、夏と冬とではずいぶん趣きが違っている。夏の写真では利尻島や礼文島へ向かう連絡船が港外へ出て行くところだが、稚内市はこれらの島々への観光の拠点でもある。
私が夏に訪れたのは9月の中頃で、すでに観光シーズンは終わりを告げて厳しい冬を迎える仕度を始める頃であった。地元の寿司屋さんで独り酒を傾けていると、
「今年は早くから観光客がいなくなっちゃったねえ。」
「うん、でも道東のあたりにはまだ少しいるみたいよ。」
などという板前さんと漁師さんの会話が聞こえてきて、いかにも最北端の街に来たんだな、という旅情を感じたものである。(しかし考えてみれば、あなた方の目の前にもボケーッと酒を飲んでる観光客がいたんだよね。)
これは稚内公園の高台にある「氷雪の門」である↑。樺太に眠る数多くの同胞の霊を祀ったもので、近くには「九人の乙女像」もあるが、これは終戦時にソ連軍の迫る樺太の電話局で最期まで連絡業務を果たした後、敵手に落ちるのを防ぐために壮烈な自害を遂げた若き女性交換手たちを祀るものである。
この碑の彼方で、ソ連軍に捕らえられるのを恐れて自ら若い生命を絶った娘たちがいた歴史を、最近ではどれくらいの日本の若者たちが知っているのだろうか。そう言えば、南方の玉砕の地、サイパン島に今も残る「バンザイ岬
Banzai Clif」の地名の由来を知らない日本人が増えたとか、東京大空襲はソ連軍の爆撃機がやったと真面目に思っている女子大生がいる、などという話を聞いたのが、かれこれ20年近くも前の話だから、「氷雪の門」や「九人の乙女像」の由来など知っている若者はもうかなり数少ないのではなかろうか。
近隣諸国の政府は、日本ではアジア侵略の歴史を教えていないと非難するけれど、本当は近代以降の歴史については何にも教えていないというのが実情なのであって、何もアジア人民との関連に限らないのである。
さて稚内市は日本最北端の街であるけれど、本当の日本最北端の地は稚内市からバスで1時間ほど行った宗谷岬である。昭和50年代頃は稚内からバスが1日4往復しか無かったので、時間に余裕のない観光客はなかなか訪れることが出来なかった。今でもそのようであるが、最近ではレンタカーで行く人が多いのではなかろうか。
宗谷岬には写真のような「日本最北端の地」と書かれた碑が建っていて↓、ここはイヤが上にも旅情をそそられる場所であった。
ところで「宗谷」といえば、日本の初代南極観測船の名前として記憶しておられる年配の方も多かろう。「宗谷」は北方測量のために戦前の日本海軍が徴用した砕氷船で、戦時中は南方方面にも活動したが、砕氷船独特の船首が低速の割には物凄い波を掻き分けるため、アメリカ潜水艦は「宗谷」の速力を過大評価してしまって魚雷を命中させることが出来なかったという。こうして戦後まで生き残った「宗谷」は、数少ない砕氷船だったために、昭和30年に南極観測業務が開始された時、観測船として白羽の矢が立ったのである。
「宗谷」は昭和31年から37年まで6回の南極観測業務に当たった後も昭和52年まで現役で活躍を続け、現在は東京湾の船の科学館に展示されている。
さて宗谷岬の背後の丘の上には写真のような変わった建物が残っていた↓。日本海軍の望楼の跡である。
望楼と言っても、わざわざ日本海軍が宗谷岬で流氷観測をしていたわけではない。日露戦争中、バルチック艦隊がここ宗谷海峡を通過するかどうかを監視していたのである。
日露戦争は大陸で戦う陸軍に補給を維持するために日本海の制海権を確保できるか否かが戦略のポイントであった。日本海軍はなけなしの連合艦隊精鋭をもって、ロシアが極東に保有する旅順艦隊とウラジオストック艦隊を各個撃破していったが、ロシアはさらにヨーロッパ側に保有する強力なバルチック艦隊を極東に派遣して、日本海の制圧を目論んだ。この艦隊が日本海に侵入してウラジオストックを根拠地に活動を開始すれば、日本の勝ち目はなくなる。
バルチック艦隊の本国出港の知らせは直ちに日本にもたらされた。問題はこの艦隊がいつ日本に接近するか、そしてどのルートを通って日本海に侵入するか、であった。
バルチック艦隊の侵入経路に関しては3つの可能性があった。
@宗谷海峡 A津軽海峡 B対馬海峡
その一番北側のルートを見張っていたのが、この望楼である。バルチック艦隊来航の最も早い予測は1904年の暮れであったから、年末の厳冬到来の頃から、このちっぽけな望楼に勤務して、来る日も来る日も目を凝らして海上を見張っていた将兵たちがいたのだ。
しかし冷静に客観的に考えれば、バルチック艦隊はBの対馬海峡を通らざるを得ないのである。津軽海峡や宗谷海峡に迂回するためには日本列島の東岸を通過しなければならず、日本の哨戒線に引っ掛からないように沖合いを通れば、燃料である石炭のロスがあまりに大きい。だが当時の日本は、この可能性のきわめて低いルートにも望楼を設けて監視を続け、あらゆることに万全を期したのであった。
1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦で日本の連合艦隊が圧勝に近い勝利を収めた裏には、宗谷岬で寒さに震えながら監視を怠らなかった将兵がいたことも忘れてはならない。
当時の日本人は、すでに本国出港以来、征途の半ばにあるバルチック艦隊の脅威に震え上がっていたに違いない。連合艦隊がこの強力なロシア艦隊に敗北すれば日本は亡国になると誰もが恐れをなしていたことであろう。
しかしちょうど100年後の今日、日本はバルチック艦隊以上に恐ろしい敵の来襲の危機にさらされているのだ。言うまでもなくそれは経済破綻である。現在、日本国の借金は1時間に何億円という規模で膨れ上がっているという。まさにバルチック艦隊が1海里1海里、日本近海に接近してくる状況と同じではないか。
これを迎え撃つ日本の内閣に、日露戦争の時のような準備周到な司令長官や参謀たちはいるのだろうか。現・小泉内閣は郵政民営化を重点において構造改革の大義名分を果たすつもりのようだが、何百隻も押し寄せる敵戦艦のうちのたった1隻と刺し違えて、後世に名を残そうとしているようにしか見えない。構造改革の標的は郵政だけではない、国家のあらゆる機構における無駄を省いて財政を健全化させなければならないのに、何一つ大局的な戦略を持ち合わせていないのではなかろうか。
万に一つの撃ち洩らしもないようにと、宗谷岬の突端にまで望楼を設けて監視を怠らなかった明治日本の指導者たちを思い起こして貰いたくてこの写真を載せたが、やはり国民としては最悪の場合を覚悟しておいた方が良さそうだ。日露戦争を見事な準備と戦略で勝ち抜いた日本政府も、30〜40年後には無能な集団と化して、太平洋戦争では完膚無きまでの敗北へと日本を追いやった。
戦後の奇跡の経済復興を成し遂げた日本政府もまた、その絶頂は東京オリンピックに続く約10年間の躍進期にあったと見るべきで、それから30〜40年後の今日、同じパターンで推移したとすれば、太平洋戦争で敗北した時と同じくらい形骸化した無能集団になっている可能性があるからだ。
歴史は繰り返さないで欲しい!