渡良瀬川
群馬県、栃木県を経て利根川に注ぐ支流のひとつ、渡良瀬川が足利市内で少し北側に膨らむように蛇行するあたりに、その河川の名前を冠した橋が架かっています。渡良瀬橋あるいは渡良瀬川、その名前を聞けば、ある一定の年代以上、そしてまたある一定の年代以下の世代の人たちならば、あのアイドル歌手を思い浮かべるのではないでしょうか。
森高千里さんが自ら作詞した『渡良瀬橋』を歌ったのは1993年、もうずいぶん昔のことになりました。森高千里さんと言えば、1989年に南沙織さんの歌だった『17歳』をリメイクでヒットさせた時の印象が鮮烈です。南沙織さんがしっとり歌い上げていた歌を、超ミニスカートを激しく揺すりながらハイテンポの乾いたリズムで歌う姿にビックリしましたし、透明な声の質にも魅せられました。でももうあの娘もすっかりオバさんになってしまいましたね(笑)。
渡良瀬川と聞くと、本当は日本の歴史の中でもう1人、思い出さなければいけない人物がいます。渡良瀬川上流の足尾には日本有数の銅山があり、江戸時代から採掘が行われてきましたが、明治時代に古河財閥に払い下げられてから新たな鉱脈も発見され、銅の生産が飛躍的に増加します。それはそれで当時の日本の国力増進の一翼を担いましたが、また一方では日本最初とも言える公害事件にまで発展しました。足尾銅山鉱毒事件です。この事件の中で、終始住民のために反対運動の先頭に立った人物が田中正造でした。
銅の精錬に起因する酸性雨で足尾付近の森林が全滅して保水力を失った土壌が渡良瀬川に流出、この足利市付近でもたびたび洪水の原因になりましたし、また川に垂れ流された“鉱毒”(銅イオンや硫酸と言われている)のため、渡良瀬川流域の稲は立ち枯れ、付近の住民にも健康被害が出たようです。
何しろ日本最初の公害事件ですから、環境問題とか公害病などの概念もなく、当時の富国強兵の国策の下、科学的な実態調査が行われたわけでもありません。しかし渡良瀬川流域の住民の寿命、稲作の被害などを視察、足尾銅山の鉱毒が原因であるとして、田中正造は鉱毒反対運動に取り組みました。
被害が初めて確認されたのは、田中が第1回衆議院議院総選挙で初当選した1890年から翌年にかけてですから、日清戦争直前のことです。清国から砲艦外交の恫喝まで受けて、何とかして国力を発展させなければいけなかった時代ですから、政府としても住民の健康や環境まで考える余裕は無かったと思いますが、田中は議会でも鉱毒対策と住民救済を要求する演説を行ないます。
逆に言えばこの時代の日本の議会制民主主義はきわめて健全だったとも言えますね。富国強兵の国策に真っ向から冷水を浴びせるような政治家が存在する余地もあったわけですから…。こういう言論が封殺されるような時代になったら国もおしまいです。
田中は日露戦争前の1901年に議員を辞職しますが、その後もキリスト教会を通じて鉱毒反対運動の先頭に立ち続けます。死を賭して明治天皇に鉱毒被害を直訴しようと試みたこともありました。財産はすべて反対運動の資金に消えてしまい、江戸時代の名主の家の出身だった田中が1913年に運動支援者挨拶回りの道中に倒れて死亡した時、袋に持ち歩いていた全財産は聖書と日記と小石とチリ紙だけだったということです。
昔は本当の政治家は財産を使い果たして、屋敷には井戸と塀しか残らないという比喩から、国民のために働いてくれる立派な政治家のことを“井戸塀”と呼んだそうですが、田中正造にはそれさえ残らなかった。今の日本にそういう政治家がいるでしょうか。渡良瀬川の流れを見ていると、つくづく国の将来が思いやられます。
足尾銅山も1970年代に閉山して被害は減少していますが、21世紀になってもまだ鉱毒事件の爪跡は完全には癒えていません。2011年3月11日の東北・関東大震災でも堆積した鉱毒汚染物質と見られる有毒物質が流出しました。いったん傷ついた国土は何十年経っても元へは戻らないことをイヤと言うほど思い知らせてくれる事例です。
明治時代、日本は清国を打ち破り、ロシアを打ち破り、世界の一等国へ躍進を遂げましたが、21世紀に至るもなお残る渡良瀬川流域の傷跡はその代償の一つと言えるでしょう。戦後復興で日本はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国にまで一度は登り詰めましたが、足尾鉱毒事件よりもっと大きな代償を払ってしまいました。しかもその日本に第2の田中正造なし…。
太陽も西に傾いてきました。間もなく広い空も、遠くの山々も森高千里さんが美しく歌い上げた夕焼けに彩られるでしょう。あの叙情的な歌詞もさることながら、日本の過去の栄光に隠された暗い深淵を際立たせるような夕日です。