山寺(立石寺)
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
『奥の細道』の道中、松尾芭蕉がこの有名な句を詠んだのが、ここ山形県の立石寺、通称“山寺”です。あちこちに断崖のような険しい岩肌が切り立った山の中腹に建てられた立石寺(りっしゃくじ、古くはりゅうしゃくじ)を訪れてみました。秋も深まる季節でしたから、もちろん蝉は鳴いていませんでしたが、この断崖に囲まれて鬱蒼とした木々でたくさんの蝉が一斉に鳴いていたら、それらは岩肌に反響して耳を聾せんばかりだったと思います。そのけたたましい音響も、単調に絶え間なく続いているために、却っていつしか意識から遠のいて音として認識されなくなってしまった、そんな状態を芭蕉は「閑さ(しずかさ)」と表現したのでしょう。
ところでこの立石寺は通称山寺というとおり、険しい岩山自体が境内になっていて、山門から奥の院までかなり急な石段を1000段以上も登って行かなければなりません。限られた時間しかなかったが、立石寺だけはこの機会に何としても行ってみたかったので、私は山形市内から観光タクシーを貸し切りにして貰って出かけました。
朝ホテルのロビーに迎えに来て貰い、お昼の山形新幹線に間に合うように駅まで送って貰う約3時間のコースでしたが、山形市内から立石寺まで往復約1時間、私が運転士さんに「山寺の上まで登って降りて来るのを待っててくれるだけでいいから」と言うと、運転士さんはとんでもないという顔をして、
「お客さん、無理だよ、時間だけじゃなくて体力の問題もあるしさ。山門から一番上まで片道行くだけで40分から1時間だよ。」
と、残り2時間の余裕だけでは奥の院まで辿り着けないようなことを言いましたから、確かに片道そんなに時間がかかるなら仕方ない、とにかく新幹線に間に合うように途中で引き返して来るから、と言い残して駐車場を後にしました。
山門の手前に宝物館があり、ここで寺に伝わる九相図(野外に放置された死後の人間の肉体が朽ち果てていく様子を9段階に分けて描いた絵で、法医学的にも実に精緻な観察眼に驚かされる)や地獄絵図(お馴染み血の池や針の山を舞台に閻魔大王や地獄の獄卒たちが罪人を責め苛んでいる絵)などを鑑賞した後、いよいよ石段を登り始めたわけです。
途中、松尾芭蕉が例の蝉の声の句を詠んだ場所(上の左の写真)などを眺めながら、トントントンと石段を登って行き、ついに奥の院に着いてお参りしたのが20分後、片道1時間と聞いていたから、こんなはずはない、まだまだ上があるんだろうと思って道を探しましたが、やっぱりここが終点でした。奥の院からちょっと横に入った五大堂(右の写真)で下界の絶景をしばらく眺めて、それからまたトントントンと石段を下りて、50分もかからずに、上まで登って来たよ、と言ってタクシーに戻ったら、運転士さんが「お客さん、健脚だねえ」と目を丸くして驚いていました。
それで最初の予定よりかなり時間の余裕ができたので、芭蕉記念館とか、山形野菜の産地直売所とか、市内に戻って旧県庁を修復した文翔館なども見物させて貰いましたが…。
立石寺の石段は1000段以上あるそうです。荷物は全部タクシーに預けて身軽であり、また過ごしやすい晩秋の季節だったとはいえ、学生時代に友人と真夏に訪れた四国の金比羅山の階段を登った時ほどの疲労感もありませんでした。還暦を過ぎて私もまだまだ頑張れるだけの体力が残っているんだなと、中学・高校・大学時代にランニングや筋肉トレーニングなどを厭わなかった若き日の自分自身に感謝したい気分です。
石段の途中や奥の院・五大堂などで行き会った人たちのうち、病気や障害を抱えた方や、私より高齢の方はハンディがありますが、まだ30歳代40歳代にしか見えない一見健康そうな人の半分以上が、顎を出してハアハア肩で息をしながら辛そうに歩いている、平気で歩いていたのは寺の坊さんと、いかにもスポーツに親しんでいるらしい体の引き締まった人たちだけでした。
若い人たちには、今のうちに自分の体をできるだけ鍛えておきなさいと言いたいですね。そう言えば松尾芭蕉も健脚です。『奥の細道』の道中だけでも、元禄2年(1689年)3月末に江戸を出立して、日光・白河・松島・平泉・山形から北陸を通って加賀から岐阜の大垣まで約5ヶ月で踏破しています。