色づく街
記録的な猛暑だった今年(2010年)の夏も終わり、また冬の到来を予感させる季節が巡ってきました。「秋はものを想う季節」とか「“もののあはれ”が分かる季節」とか言いますが、じっとしていてもモワッとした空気の中で汗がダラダラ流れる辛さから解放されてホッとしたのも束の間、我が家はエアコン壊れたんだった…!
“もののあはれ”どころではありません(笑)。しかし考えてみれば、ちょっとした外出と移動の時以外は空調の完備した快適な空間に居住している現代の都会人が、春が来たからと言って心が躍り、秋になったと言って物思いに耽る、何だか人間の方が勝手に季節に踊らされて遊んでいるだけのような気がします。
我が家のエアコンは家屋の構造上、解体工事をしなければ修理ができません。ですから小さな電気ストーブだけでこの冬を越さなければならない、部屋の中でも厚手のセーターを何枚も着込んで最大600ワットの電気ストーブを抱えてガタガタ震えている自分の姿を想像するとゾッとします。惨めですね、哀れですね(笑)。
案外、“もののあはれ”の本質はこんなところかも知れません。近代的で快適な環境にいて平安朝を気取ってみても、所詮は現代の都会人のお遊び、今年の冬は私も思い切り“物の哀れ”を堪能しようと思っています。
そう言えば西行法師もそんなことを言っていたような…。
都にて 月をあはれと思ひしは
数よりほかのすさびなりけり
つまり優雅な都にいた頃に月を見て“あはれ”と思っていたのは、単なる気まぐれだったというわけです。西行は旅に出て諸国を巡り歩きながら、自分なりに“もののあはれ”を感得したようで、次のような歌も詠んでおり、下の句が“秋の夕暮れ”で終わる3つの秀歌(三夕:さんせき)の1つとして有名です。
心なき 身にもあはれは知られけり
しぎ立つ澤の秋の夕暮れ
ところで“すさび”とは漫然と気まぐれに過ごすこと、“あり(在り)のすさび”という言葉もあり、生きているままに漫然と過ごしてしまうという意味です。過ごしてしまった時間はもう二度と取り戻せない、そんな当たり前のことも若い頃はなかなか気付きません。
また明日があるからいいや、また来年があるからいいや、頑張らなければいけないことも、今はつい楽をしたくて先延ばししてしまう。でも未来がまた同じようにあるとは限らないことに気付くのは、やはり私も相応の年齢に達したからでしょうか。
秋は1年の終わりを予感させる季節、来年も再来年もまた同じように過ごせる保証がなくなった今になって、ああ、若い頃にもっと頑張っておけば良かったなと悶々とする自分の姿もまた哀れ、これも“もののあはれ”につながるのかも知れません。
古今和歌六帖という和歌集に次の歌があります。
ある時は ありのすさびに語らはで
恋しきものと別れてぞ知る
かつて昭和46年、私が大学に入学した年に新人デビューした南沙織さんが歌った『色づく街』(CBSソニー:有馬三恵子作詞、筒美京平作曲)というポップスがありました。その歌詞の最後の部分の方が今の若い人たちにも分かりやすいかも知れませんね。
街は色づくのに 会いたい人は来ない
人の優しさ 人のぬくもり
ああ 通り過ぎてわかるものね
秋もますます深まる気配に、つい柄にもなくセンチメンタルになりました。