江田島
戦前生まれの人はいざ知らず、戦後に生まれた世代で「江田島」と言われてピンとくる人は、海上自衛隊も含めたNavy
Fanか、島の住民(江田島町民)の方々であろう。広島市と呉市のちょうど中間の沖合に位置する瀬戸内海の島で、近辺の海上には、西に安芸の宮島、東に平清盛が切り開いた音戸瀬戸があり、瀬戸内有数の景勝地の真ん中にある。
何と言っても江田島を有名にしているのは、ここに戦前から海軍士官を育成する海軍兵学校が置かれていたことであり、その伝統は現在も受け継がれていて、今は海上自衛隊の幹部候補生学校と第一術科学校になっている。上の写真↑は兵学校時代の赤煉瓦造りの東生徒館で、この美しい煉瓦は英国から運ばれてきたものだそうだ。
1869年(明治2年)、海軍操練所としてスタートした明治新政府の海軍教育機関は、海軍兵学寮の名称を経て、明治9年に海軍兵学校となった。当初は東京の築地にあったが(現在ではがんセンター構内に碑が残っている)、教育環境が悪いとかいう理由で明治19年に広島県の江田島に移転した。何しろ、後の海軍大臣山本権兵衛が築地の候補生時代、兵学寮の短艇(カッター)で品川遊郭へ遊びに行ったというから、確かに軍人としての”教育環境”は良くはなかったらしい。
ただし山本権兵衛は大変立派な人で、品川で見初めた遊女と結婚し、生涯後ろ指をささせる事もなく、最後は首相にまでなっている。江藤淳の「海は甦る」によると、権兵衛は同期の候補生たちの漕ぐカッターで遊郭に横付けし、あらかじめ遊客を装っていた弟の手引きで、目指す遊女を奪い取るようにして結婚したのだという。その時、カッターを漕いでいた同期生たちは一斉に立ち上がって、賓客に対するように遊女に敬礼をしたと書いてあり、まさに興りつつある新しい国の指導者の若き日のロマンスである。
兵学校は江田島に移転してからも多数の優秀な海軍士官を輩出し、特に日露戦争の諸海戦の勝利は江田島出身者の手でもぎ取ったようなものである。太平洋戦争になるとその功績には「?」が付かざるを得ないが、戦後の復興期以降は再び”旧”海軍兵学校出身者たちがさまざまな分野で活躍して日本をリードするようになった。どうも日本という国のさまざまな組織はトップの人材がだぶついてくる数十年周期で消長を繰り返すようだが、この戦後の再躍進期に活躍した方々の経歴を見ると、意外に海軍兵学校出身という方が多く、それだけ優秀な人材をため込んでいたということでもあろう。
医学界でも皇室関係のお産では必ず名前の出てくる産婦人科の坂元正一教授は72期(昭和18年9月卒業)、小児科時代の私の恩師の小林登教授は75期(昭和20年10月卒業)で、学生時代にお二人の講義を拝聴したものである。
イギリス、アメリカ、日本の兵学校を称して、世界の三大海軍兵学校と呼んだそうだ。三大かどうかは判らないが、これら三校はいずれも所在地名がそのまま兵学校の固有名詞になっていることは確かである。イギリスの海軍兵学校はダートマス(Dartmouth)、アメリカがアナポリス(Annapolis)、日本が江田島というわけだ。
私も世が世なら”江田島”を志望したところだが、おそらく視力が悪くてハネられたであろう。とにかく海軍兵学校は学科優秀、身体剛健、品行方正とあらゆる面で非の打ち所がないようでなければ合格しなかったという。逆に言えば、そういう”超一流”の人材を全国からゴッソリ引き抜いてしまったことも、戦前の日本の科学や産業の立ち遅れの原因の一つではなかったか。そういう若者たちを必ずしも戦死させてしまったという意味ばかりではない。せっかくのエリートを日本軍という世界でも有数の不条理な価値観が支配した環境でガチガチに固め上げてしまったということである。
戦前に江田島で英語を教えたイギリス人 Cecil Bullock氏が書いたEtajimaという本の中にあったエピソードだが、江田島に親善寄港したイギリス巡洋艦の乗員がフェンシングの試合を披露したところ、生徒たちは自分たちの剣道の方が優れていると主張したという。フェンシングは前へ進むと同時に後ろへ下がる動きも常に含まれていて臆病だというのだそうだ。自分たちなら必殺の気合で敵を一撃するという。先ず負けないようにと心を配る西洋人の戦い方を小馬鹿にしていたわけだが、せっかくの人材もそういう日本軍人の悪い考え方で洗脳教育されてしまっては、まさに宝の持ち腐れだったということであろう。
上の写真は昭和59年頃に広島湾のクルージングツアーで江田島に立ち寄った時のもので、初めのうちは幹部候補生学校や第一術科学校の校舎内も見学できたらしいのだが、不心得な観光客が講義中の教室を覗いたりするので、いつの頃からか一般人は校舎内立ち入り禁止になってしまったらしい。それは自衛隊側の口実かも知れないが、いずれにしても残念なことである。