指宿


 画面中央の頂上が平らで小高い所が、指宿(いぶすき)市の前面の海に浮かぶ知林ケ島(ちりんがしま)で、干潮時には砂洲が波の上に現れてこちら側とつながります。画面左側の山は魚見岳で、夕方になると切り立ったゴツゴツした岩肌が不気味です。画面の背景にうっすらと連なる陸地は対岸の大隈半島ということになります。

 私は2003年の夏にこの地を訪れましたが、実は学生だった1972年の秋以来31年ぶりの訪問でした。今回の訪問の目的は、この31年間ずっと気になっていた特攻隊員の慰霊です。31年前にこの地を訪れた時は、知林ケ島へ続く砂洲の上に壊れたコンクリート製の水上機誘導路が残っていました。海上に離着水する水上飛行機を砂浜に運び上げるための緩傾斜のついたプラットホームで、ある方からご指摘いただいたところによれば“スベリ”、英語でrampと呼ぶそうですが、元海軍水上機搭乗員の安永弘氏は“滑走台”と呼んでいます。そしてその荒れ果てた誘導路の傍らに、真新しい特攻隊員慰霊の石碑がポツンと置かれていたのが印象的でした。この石碑がどうなったのか、私は31年間ずっと気懸かりだったのです。

 昭和20年(1945年)に入ってからの沖縄方面への特攻作戦の基地としては、大隈半島の鹿屋(海軍)と薩摩半島の知覧(陸軍)が有名ですが、この指宿からも海軍の水上機部隊が特攻出撃をしていたことを、私はその時に初めて知りました。31年前の石碑は、今では魚見岳の麓の、海岸遊歩道から少し林の中に踏み入ったあたりに置かれ、周囲は美しく整備されておりました。

 日章旗と軍艦旗に囲まれ、観音様の像に見守られて立つ石碑には、特攻隊員のレリーフ像に並んで、31年前のままに次の鎮魂の碑文が刻まれています。

 
君は信じてくれるだろうか
 この明るい穏やかな田良浜が かつて太平洋戦の末期本土
最南端の航空基地として 琉球弧の米艦隊に対決した日々のことを
 拙劣の下駄ばき水上機に 爆弾と片道燃料を積み 見送る人
とてないこの海から 萬感をこめて飛び立ち 遂に還らなかった若き
特別攻撃隊員が 八十二人にも達したことを
 併せて敵機迎撃によって果てた 百有余人の基地隊員との鎮魂
を祈って ここに碑を捧ぐ

 指宿から出撃した特攻機は、鹿屋や知覧から飛び立った戦闘機や爆撃機のように戦闘を主任務とする飛行機ではなく、滑走路のない小島や艦隊でも使えるように、機体の下部に大きな浮舟(フロート)を取り付けて海面に離着水できるように設計された水上機です。これらの水上機も一応は敵潜水艦や小舟艇などを攻撃できるような爆撃装置はついていましたが、通常は敵を攻撃するためではなく、主として偵察や連絡用に使用される機種なのです。まして強大な敵機動部隊に立ち向かうように作られた飛行機ではありませんが、こういう水上機までもが爆弾を装着して特攻作戦に狩り出されたのでした。

 ただでさえ浮舟を付けていて速度が遅い上に、重たい爆弾まで積んでいては、敵戦闘機の餌食になるのは目に見えています。中でも悲惨なのは94式水上偵察機という昭和9年に制式化された旧式の複葉(二枚羽根)布張りの水上機までが、ここ指宿から沖縄の米艦隊を目指して出撃したことでした。そういう旧式水上機が爆弾を抱えて、この海岸から祖国を後にした光景を想像するだけでも胸が痛みます。

 昭和20年5月4日、沖縄海域で機動部隊の護衛に当たっていた米駆逐艦モリソンは、この94式水上偵察機2機に体当たりされて沈没しました。布張りの機体のため弾丸が命中してもブスブスと貫通してしまううえ、海面に撃墜しても浮舟があるため再び舞い上がって駆逐艦の砲塔に体当たりしたと戦記は伝えています。戦死した米軍水兵の恐怖もまた尋常なものではなかったでしょう。日米両軍の戦死者に哀悼の意を表したいと思います。

                   帰らなくっちゃ