つひに往く旅 (高麗郷)
池袋駅から西武池袋線に乗って行くと、飯能の2つ先に高麗(こま)という駅があります。都心から急行でわずか1時間ちょっとですが、あたりは山に囲まれたのどかな風景が広がっています。付近には高麗川という川も流れていますが、地名からも判るとおり、ここは朝鮮半島との縁の深い土地で、668年に唐・新羅連合軍に滅ぼされた高句麗の人々が日本に逃れてきて住みついた場所と言われています。
ところでこの高麗の里には、入口が巾着のように狭められているために巾着田(きんちゃくだ)と呼ばれる所があり、毎年9月中旬から下旬にかけて何百万株もの曼珠沙華の花が一斉に咲き誇ることで、西武線沿線の初秋の有名な名所になっています↑。
曼珠沙華は「マンジュシャゲ」と読みますが、1975年頃でしたか、当時最大のアイドルの1人だった山口百恵が持ち歌の中で「恋する女は
マンジュシャカ〜」と歌っていて、かねてから違和感を感じていました。あの業界の人たちに基本的教養が足りないのか、あるいは「マンジュシャゲ〜」とガ行の音を伸ばすと歌詞が汚くなるので、やむを得ずわざと間違った言葉を使ったのか判りませんが、普通はやっぱり「マンジュシャゲ」でしょう。
葉の無い真っ直ぐな茎の頂に炎のように燃え上がる深紅の曼珠沙華の花に、私は毎年新鮮な感銘を受けていましたが、今回この高麗の里に来てみて、曼珠沙華には白い花もあることを初めて知りました↓。百万株に1株として、遺伝学のある法則を当てはめると、約500株に1株が白花の遺伝子を隠している計算になります。皆さんも運が良ければ、わざわざ高麗の里まで来なくても道端で白い曼珠沙華を見る可能性があるかも知れませんよ。気をつけて探してみて下さい。
ところで曼珠沙華は秋の彼岸の頃に花を付けるので別名「彼岸花」とも呼ばれています。彼岸とは彼の岸、すなわち川の向こう岸ということですが、この川はもちろん「三途の川」です。人間は最後に誰でもこの川を渡って旅をするという、この世とあの世の境界線ですね。
人は皆、自分がいつか死ぬ事を理性では判っているのですが、大部分の人はそれはずっと先のことだろうと、事実として受け入れるのを心の中では先延ばしにしています。在原業平の有名な和歌が我々の心を見事に代弁してくれていますね。「つひに」とは「終に」、つまり人生の最後にたどる道ということです。
つひにゆく道とはかねて聞きしかど
昨日今日とは思はざりしを
今回は「彼岸花」にちなんで、人が誰でもいつかは出かけなければならない彼岸への最後の旅行について考えてみましょう。まず多数の人間の生死に立ち会ってきた医師としての私の死生観を問われれば、人は誰でも死ぬもので、その時には自分の番が回って来たと思うしかない。確かにこう言ってしまっては身も蓋もありませんが、私が学生時代に解剖実習を教えて下さった解剖学者の養老孟司先生も著書「死の壁」にそう書いておられます。
死とはそれ以上でもそれ以下でもありません。私はむしろ死ねなくなる事の方が遥かに恐ろしいと思います。人魚の肉を食って死ねなくなった八百比丘尼はどんなに寂しい生を送ったでしょうか。手塚治虫さんの「火の鳥 未来編」では、人類滅亡後も何億年も生き続ける宿命を負わされた男が主人公でしたが、あんな目に会いたくありません。スーパーマンの故郷クリプトン星では、凶悪な犯罪者に対しては死刑ではなく、不死の肉体を与えて宇宙空間へ追放するという極刑が行なわれています。死ねなくなった体のまま虚空を漂流させられるほど恐ろしい刑罰はないでしょう。
歴史を振り返ってみると、黒船来航や明治維新を自分の目で見、耳で聞いた人たちは、現在では1人も残っていないはずです。そして現在ある程度の年配の人なら50年後には、また若者たちでさえ80〜90年後には1人もいなくなるわけです。同時代に生きた肉親や友人や同僚たちに死に遅れて、長いこと生きなければならない境遇というものがあったなら、どんなに辛い運命でしょうか。
しかし死ぬのが恐いと思う理由の一つは、神様から授かった寿命に多少の不公平があることでしょう。ある人は10歳代、20歳代の若さで亡くなってしまうのに、ある人は80歳、90歳まで長生きをする。この対比は極端としても、通常10年や20年の不公平は存在します。どうせならたとえ1年か2年でも得する方の人生に当たりたいのが人情ですが、寿命というものはなかなか思い通りには行きません。こういう不公平を少しでも是正してあげるのが医学の役目なのではないかと思います。
ほぼ同年輩の肉親や友人や同僚たちと比べて、あまり寿命を損しない方の人生を願う気持ちはよく判ります。かつて故遠藤周作さんが何かの本に次のようなことを書いていたのが印象に残っています。
「自分が死んだ翌日も、街にはいつものように電車が走り、飛行機が飛び、人々が何事も無かったかのように歩いている状況を想像するとたまらない。」
というようなことでしたが、遠藤さんのような敬虔なキリスト者にしてこの始末ですから、我々のような凡庸な者はなおさらです。(もっともこれはキリスト者としての遠藤さんではなく、狐狸庵先生としての諧謔だったと思いますが…。)
こういう気持ちは、いわば自分より後まで生き残る者へのジェラシーなのですが、実はこんなことを考えても仕方がありません。生きている間に、自分の死後を考えて悶々とするのは時間の無駄です。今すぐに死ぬことはなくても、今日という日は二度と来ないと考えて、現世での貴重な時間を精一杯、良心に恥じないように生きるべきです。
死とは意識が無くなることですが、「自分の意識」が無くなるとはどういうことでしょうか。我々は時々「お金を無くしたらどうしよう」とか「信用を無くしたらどうしよう」などと思い煩うことがありますが、これには正当な理由がありますね。何故ならお金や信用を失っても、自分の意識は変わらずに残っていて、大切な物の喪失に対処しなければならなくなるのですから、思い煩うのが当然です。
ところが「意識が無くなったらどうしよう」と思い煩うのはナンセンスです。意識が無くなったことに対して主体的に対処すべき意識がすでに無いのですから、論理的に意味がありません。
死後の世界があるかどうか、これは昔から人々の大きな関心事でしたが、何しろ調べようがないので何とも申し上げられません。純粋に科学的な立場からは、死後の世界は無いとしか言えませんが、この問題は、私は自分が死んだ後のお楽しみに残してあります。死後の世界があれば儲け物くらいに考えていますが、死んだ後も生き続けなければならないというのは、ちょっと辛いかな…。
そういうわけで自分の死を考えることは意味がありませんが、一方で肉親や友人や同僚など身近な人たちの死というものは重要です。現世での自分の存在や生活の一部を支えてくれていた人たちが逝ってしまうのですから、それは大切な物を確実に喪失することなのです。自分の意識の喪失などとは切実さの次元が違います。
我々は自分の死を思い悩む時間があったら、身近な人々ともいつかは死に別れる可能性があることの方を深く真剣に悩むべきです。共に現世にあって一緒にいられる貴重な時間を、精一杯、良心と信義に恥じないように過ごさなければなりません。阪神淡路大震災の体験談で、恋人や友達と喧嘩したままになってしまった、などという話を読むと、我が身につまされて心が痛みます。不慮の事故や災害はいつ我々に振りかかって来るか判らないのですから…。
ところで人間はいつから仲間の死を悼むようになったのでしょうか。イラクのシャニダール洞穴にはネアンデルタール人が死んだ仲間に花を供えて葬った跡がありますし、人類以外でも幾つかの哺乳類では仲間や家族が死んだ後に悲しんでいるような感情を見せることが報告されています。
私は小中学校や高校時代の日本史の教科書のある部分に疑問を持っていました。それは縄文人たちは死者の霊魂を恐れて、死んだ仲間の手足を折り曲げて石を抱かせ、甕棺に入れて葬った(屈葬)という個所です。この疑問は予備校の日本史の教師が見事に解決してくれました。
縄文時代人でも現代人でも死んだ肉親や仲間を愛惜する気持ちは同じだ。石を抱かせて丸めて捨てるように埋めるなんて出来るわけない。手足を折り曲げるのは胎児の姿勢を取らせて、再びこの世に生まれてくることを願うもの。また古代人は石は次第に成長して大きくなる生命の源と信じていたのである。そのことは「君が代」の歌詞を見れば判ることだ。「君が代は 千代に八千代に」の後、どのように続くか。
「さざれ石(小石)が巌(いわお=大岩)に成長して、苔で一面が覆われるまで」の長い長い年月、君が代は続くと歌っているではないか。その石の生命力を死者に吹き込もうとしたのだ。
私はなるほどと思いました。あの予備校の日本史の先生(佐々木先生といった)に歴史の読み方の基本的姿勢までを教わったように思います。浪人して良かったと感じました。
確かに日本人が死者を本当に恐れるようになったのは、菅原道真や平将門の怨霊が暴れ回った平安時代頃で、いずれにしても熾烈な権力争いの犠牲者となって非業の最期を遂げた人たちの霊魂が祟りをなすと信じられたからです。大規模な国家も形成されておらず、権力闘争も本格的でなかった縄文時代には、あまり怨霊はいそうもありません。
また胎児の姿勢を取らせて再生を願うというのももっともな話で、ペルーでインカ帝国の前に栄えたシカン文明(8〜14世紀)の遺跡では、墓の中に貴人が胡座をかかされて逆さまに吊るされて葬られているそうです。これはまさに子宮の中の胎児の姿ですね。しかし日本の縄文時代の屈葬と違って無残なのは、逆さ吊りの貴人の遺体の上に、若い女性が一緒に埋められていることです。貴人を生き返らせるために受胎能力を持つ女性まで生き埋めにしたのでしょう。まさに残酷物語、現代日本に生を享けた私たちには言うべき言葉も見つかりません。
せっかくの曼珠沙華の花畑だったのに、深刻な話になってしまいました。彼岸花の咲く秋の彼岸にちなんで、死についてさまざま考えてみました。
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