帝京大学 医療技術学部 臨床検査学科
定年までの私の最後の公的なお勤めになると思われる臨床検査学科についてご紹介しておこうと思う。
私が現在教職に就いているのは、医師の卵を教える医学部ではなくて、臨床検査技師の卵を教育する臨床検査学科という所である。臨床検査技師については、最近各病院の掲示板や壁などに紹介されているサイトなどを参照して頂きたい。
昔の病院では医師が中心にいて、看護師(昔は看護婦といった)や薬剤師や検査技師などという職種はいわゆるパラメディカル(paramedical)と呼ばれる助手的な存在だった。パラメディカルの“パラ(para)”は“まわりにいる”という意味で、つまり医者のまわりであれこれ雑用をする“小間使いさん”的な意味合いになる。
今でもそう思っている頭の古い医者はいるが、最近ではこれらをコメディカル(comedical)と総称するようになった。コメディアンではない。“コ(co)”は“一緒にいる”という意味で、医者と共に仕事をするスタッフのことである。昔も今も医師は患者さんの診断や治療方針決定については最終責任を負わされていることに変わりはないが、現代の医療は高度に専門化されてしまったので、とても医師1人の能力ですべてを決定することは不可能になった。それで医療におけるいろいろな側面での責任を各専門職種が分担するという考え方が基本にある。
臨床検査で言えばこういうことである。昔の医師は血液や尿の検査を自分でも一通りやろうと思えばできた。私も研修医の頃は血液検査や骨髄検査や尿検査など、夜遅くまで医局の研究室でやったものである。つまり臨床検査は医師の職分だけれども忙しくて時間が無いから技師に任せおく、というのが昔のパラメディカル時代の臨床検査技師だった。
しかし医学の進歩につれて検査項目が多くなり細分化された、しかも究極の精度が求められるようになった、これはもう医師1人の手に負えない。さらに医師自身に求められる仕事の内容も複雑になった。もはや臨床検査の専門家と一緒でなければ医療を担えなくなった。そういう専門家を育てるために、従来の専門学校ではなく、4年制の大学の学部を置くようになったのが医療技術学部である。
帝京大学の医療技術学部は最初に視能訓練、看護、診療放射線の3つの学科でスタートした。臨床検査もその時に同時に始めればいいものを、なぜか学科の開設が1年遅れた。その理由は知らないが、とにかく私に新学科で臨床検査技師の卵たちに医師の立場から教育に当たってくれと大学から要請されたのが2005年の春、翌年の4月に第1期生を迎えて正式に教授に就任した。
私も大学卒業後、いろいろな病院でさまざまなコメディカル・スタッフと一緒に仕事をしてきたが、臨床検査技師は医師に一番発想法が近く、医師の作業領域と重なる部分が多い職種である。看護師にはナイチンゲールの時代から医師とは一線を画した特別の領域があったし、薬剤師や放射線技師や視能訓練士は専門分野が比較的限定されていて、その分野内ではほとんどの医師の追随を許さない専門性を持っている。
ちなみに私が一緒に働いてきた中で、一般的に最も怖い職種は助産師(婦)であった。何しろ彼女らは自分たちの専門性は絶対に医師に引けを取らないという自負がある。妊娠・分娩を介助し、さらに新生児保育までを援助する能力を身につけて、産科医や小児科医と共に働いているわけだが、産科医には新生児は診療できない、小児科医にはお産はできない、両方とも出来るのは私たちだけよと言っていた。内科医や外科医など屁でもない。
新任の産科医や小児科医が初めて病棟や外来に挨拶に行くと、他科の看護師さんたちはニコニコして「よろしく」と言ってくれるのに、助産師さんたちだけはこちらの能力を値踏みするかのような目付きでジロジロ眺め回してきたもので、これは大体どこの病院でも同じだった。しかし私が新生児診療も産科診療もやってきたことが判ると、まだペーペーの医者だったのに、ベテランの助産師さんまでが本当に心から信頼してくれて、ある病院を退職する時など、医師も怒鳴りつける一番怖かった助産師さんから「先生が一番ドクターらしいドクターだった」と言ってくれたのが嬉しかった。
ところで臨床検査技師には、こういう医師との独自性の違いはそれほど大きくなく、患者さんや患者さんから採取された検査材料に相対するする時には、むしろ医師と同じ発想で動くことが多いと思う。臨床検査学科の教授就任を言われた時、そういう職種の学生さんに医学を教えるのは責任が重くて大変だなと思ったが、医師として周産期医療から病理解剖までの現場を渡り歩いてきた私が手塩にかけて育てたら、どんな風に育つんだろうかという楽しみも大きかった。
しかし専門学校から大学の学部になったといっても、医学部の修業年限は6年、臨床検査学科は4年、この2年間の差は大きく、私が担当する解剖学や病理学の講義時間数も医学部の1/2から1/3程度しかない。これで医師と同じ発想で医学を捉えられるようになるのか。それが一番の心配だったが、おそらく他の学校ではできないカリキュラムで対応してみることにした。
まず医学部では解剖学の講義と実習はかなり高度で、親指の先くらいしかない小さな筋肉の名前だとか、その筋肉を動かす神経の名前や走行経路などを片っ端から覚えさせられるが、そんなことを卒業後もすべて覚えている医師はいないし、専門のリハビリなどの現場でない限りそういう知識は必要ないことが多い。
また医学部の解剖学も病理学も内容の専門性はかなり濃いが、例えば肝臓の講義なら肝臓の専門家、肺なら呼吸器の専門家が、入れ替わり立ち代りオムニバス形式で講義することになる。したがって1人の講師の持ち時間は1コマ(90分)ないし2コマ(180分)に限られて、話し方のバランスの悪い人だと講義の最後の方は尻切れトンボになって終わってしまうこともあるし、さらに講師の講義方法や内容の深さなどにもバラつきがあって、聴いている学生としては何をどこまで勉強すればいいのか混乱することもある。
実際、私が医学生だった時の各科の講義を思い出してみると、同じ科の講義であってもA先生からB先生に代わった途端に、話のリズムや講義資料の形式までがガラリと変わってしまい、頭を切り替えるのが大変だったばかりか、そういう講義は卒業後何年もしないうちに印象が薄くなってしまった。逆に組織学だとか泌尿器科学だとか1人の先生が同じペースで延々と講義してくれた科目は、卒業後30年以上を経た今でも内容の概略がけっこう頭に残っている。
要するに私程度の医者が臨床医あるいは病理医としてやってくるのに必要十分だっただけの解剖学や病理学の知識を、私が1人で延々と講義をすれば、学生たちの頭の中にはかなりの程度のものが残るのではなかろうか。そこで私は解剖学14コマ、病理学28コマに加えて臨床生理学Tという科目の14コマを全部通して、一つの講義にまとめて講義することにした。これらの学科は他の学校では別々の教員が担当することも多いだろうが、実は内容的には互いに関連していることが多い。例えば心臓の構造と、心電図の基本知識と、心筋梗塞という病気は全部ひっくるめて講義すれば、本来は3コマの時間が必要なところを1コマか2コマで済み、余ったコマ数を他の内容に当てることができる。
さらにこれに解剖学実習と病理学実習の合計28コマを講義とリンクさせて、学生さんたちには合計84コマを履修して貰っているが、私の講義と実習を熱心に勉強してくれた子たちならば、卒業後数年を経た段階で彼らの頭に残っている解剖学や病理学の内容は、普通に医学部を出た医師に匹敵するであろうと今から楽しみにしている。
確かに私1人で講義した内容であるから、もしかしたら偏りがあるかも知れないし、間違いや思い違いもあったかも知れないが、足りないものを補足したり間違いを訂正したりする力も身に着けて貰いたくて、翌年からは20コマ以上の補講やゼミも開講している。
最初にこの学科の教員を仰せつかった時には、まさか自分がここまでやることになるとは思ってもみなかった。どうせ最近の若い学生はろくに勉強もしないし、礼儀も知らないだろうという先入観もあったからだが、不思議なことに少なくとも1期生2期生として入学してきた子たちの評判は意外に良い。他の学科や教室の人たちが口を揃えて褒めてくれる。あと2〜3期このまま推移すれば、これは良い伝統として定着するだろう。そういう学生たちに医学の基本を教えるのが私の最後の公的なご奉公だったのかとしみじみ思うようになった。
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